※追記:読み返してめちゃおこがましいこと書いてる!!!と反省している。本心でもある。ここでは謙遜をしない。
名前を変えた。アカウント名をあまり深く考えないで特定されるの、悪い癖!(特定されたことがあるかどうかはしらん)結局変えられてないかも。洗剤だしな。ちなみにハンドルネームの由来はよくわからん。後付けで、推しと推しの名前を文字って足してって感じかね。なんとなくなりたい名前とか使いたい文字を使う。
何というか、ここは自分語りに使わせてもらっていてありがたい。好きなこと長々と書きなぐれるし、ほら、普段主体的には話せない職業ですからさ…。
あ~ハイハイ、互助会互助会
という気分である。
昨日から少しずつ、しずかなインターネットの操作をおぼえてきたよ!やったねたえちゃん。
とっても好きな相互さんがいて、評価されてないというか、同じ創作者にはあまりウケてないようでちょっと寂しかったりする。いやいや、評価されてないって私が言うのおこがましいな。つまりもっと評価されるべきタグがついていいってこと。わいが応援する!まあ普段から定期的にあげてる人ではないから、目についてないだけかもしれないが…。
ここで過る、この記事。
ずっと触れたかったんだけど、なんかもう同意同意でどこから触れていいのかわからなかった。
絵を描くのが好きな人は、絵を描いてネットの海に投げる。反応は様々だが、その反応が交流の有無によって変動するというのが加わった。つまり、絵描きは交流というものをしないと、そもそも評価が乗ってこないという付加価値が加わったのだ。
なんかもう、本当に閉鎖的な身内でイイネ♡イイネ♡しあって、たまたま互いにフォロワーが多いものだから数字も伸びて…みたいなのがあまりに多い。
いや数字がすべてなんじゃないよ。でも何だろう、この疎外感。いや、私の場合はニーズに沿った良いものを生み出せてないだけの可能性は大なんですケド…前置きが長く読みづらい文章だろうなって自覚はある…汗汗
誰が書いたか(仲間内か外か)だけで弾かれてるんだったら、良いものであろうと見過ごされているとは思わんか。
言わずもがな私のフォロワー数は微々たるもの。上記の相互さんの絵を見て見てしたところで数字に貢献できることはないだろう…。それでも感想を伝えたいのだ、こんなに可愛い推しを生み出せる人がここにもいるのだ!と知ってほしいだけなのだ…。
この時点でちょっと過る、互助会と全肯定botになりかねない私、何が違うんだろうか…。とにかくその人に筆を折ってほしくないだけよ…。その人が生み出すものなら何でも好きだっていうのは、見返りがほしいのではなく、たぶん根本で好きなものが同じとか、何か似通ったものを見出しているからだと思っている。同じ相互でも根っこが違う人にはそういうのもアリだネ…(^_^)という反応をせざるを得ないときもある…。趣味がな、ちょっとちがうのや。
最近よく掲示板で聞く「互助会」というのはその交流の行きつく果てみたいなものじゃないかと思うようになってきた。 お互いに助ける会、と聞こえはいいが蓋を開ければ中のいい人たちが輪になっているだけで、輪の外にいる人には目もくれない、というものだ。ムラ社会みたいなものか。 自分(はあなたの絵に反応してRTイイネという)反応するからあなたは自分(の絵に対して)反応してね、という事らしい。これが現代版・交流というものなのかーと思うと、なるほど、お互いにWinWinな関係がいいんだな。
こうなるともはや創作の相互っちゅーよりビジネスパートナーでは?
こういうことしてる人たちほど売り物つくってる印象。互助してたらお互いの価値が上がって売れますもんね。ディスりがとまらねーぞ大丈夫か。
何のために書くのか
ということが、初めて売り物をつくってから迷走している。つくるために書いてしまってる気がする。
もともとは書いて、読んでもらえるだけでうれしくて。あるとき「紙で手元に持っておきたい」と言ってくれる人が現れて、そんなたった一人の言葉に踊って本にしてしまったわけだ。何と安直な自分であろうか。恥ずかしいぜ。その人はその言葉のとおり、オフイベで手に取ってくれた。感謝しかないよ…。
これは自慢だ、発行した部数は完売した。余部サービスというのがあったから、手元に少し余っている…。
つくること自体はとても楽しかった!大変だったし生活と月日をすごく犠牲にした気はしなくもないけど、今の生活で支障のでる部分はないからダイジョーブだった。
自分の文章を形にしておくのは、長年の創作活動のなかでひとつの夢だった。しょうもない文章でも何か形にできたら、それを手にとってくれる人がいたら、もうやめてもいいかなと思っていた。
これは私と世間一般との感覚の違いなんだけど、本を出すってのは完全新作をつくるってことでもあるんだな。再録って形の人もいるけど、よっぽど人気作じゃないと売れないのかな。なんせwebで読めるわけだし。
私は再録じゃないと、まったくの新作を毎回世に送り出せるような馬力はないし、私の完全新作なんか読みたいか?と思ってしまう…。他の人に対しても、この人の新作は絶対面白いのか?と思ってしまう。超絶失礼。
たぶんこの人の新作買いたい!のハードルが高いんだな。前述の相互さんのなら再録だけだろうと手元に残しておきたいもんな。そういうことなんだろうな。はぁ…。
上記のnoteで引用されていたnoteもひとつ。
そのときのはやりを刹那的に追っていく浮動層を除くと、違うものには目もくれない閉鎖的な集団がいっぱいいて、その集団内で評価されなければどこにもいけない。見る人間としてはあっちを見たりこっちを見たり自由なんだが、自分の表現を受け入れてもらうためにはグループに認められる必要がある。周りに気を使ってかえって自分の好きなものについて語れなくなっていないだろうか。界隈の〇〇さんが新しい解釈をしてくださった、ありがたいみたいなことを言っている一方で、こいつは解釈違いだからブロック、みたいなことが横行しているのは窮屈だ。
実際に筆を折ってしまった人が大勢いるのがわかって、とても残念だった。もうやめようと決めたのはその人であっても、決めたというか…続ける理由が見当たらなくなってしまったんじゃないかなと思った。
私の立ち位置としては、どこかのグループに所属しているわけではない。私のつくったものを見てくれている人に、個別で感謝を伝え、その人の生み出したものもすごいすごい!としている。たぶん、フォロワー1000人近く、もしくはそれ以上の人の目には入りもしていないと思う。解釈違い乙!とミュートされてるかもしれないしね!その可能性はオフイベで感じた。これも後日。
また自分の話をしてしまうけど(とことわる職業病)、自分の場合。
・過疎ジャンルで書いて偶然賑わいの中にいられた
・工口を書けた。ただし推しに限る
・自給自足が楽しくて、黙々と続けられた(評価の有無で一喜一憂はする。それでも数か月後に復活して連載なら続きを書けるある意味つよつよメンタルの持ち主)
・運よく感想を伝えてくれる人の目に留まった
これだけ沢山のめぐり合わせに恵まれただけの話かもしれない。このめぐり合わせが大変にありがたいことなのもかみしめている。
たぶんもっと早く立ち直ってバシバシ生み出せれば、フォロワーもバシバシ増えるだろう。でもそれができないのが私。だからフォロワーも増えない。けど、粘り強くて「私」が書いたものを楽しみにしてくれる人は残ってくれるだろうな、という感じ。ある意味そういう層?にウケてはいる。みんなドMなのかな。それとも私と時間の流れ方が似てる?とにかくありがとう。
本にしてほしいと言ってくれる人がいなければつくらなかっただろうし。つくったとしても、もっと後になっていた。だからそういう言葉を惜しまず伝えてくれることって、本気で書き手の命をつなぐ。
自分もそういうことができたらと、相互さんに愛を伝えている。
ここまで書いてみて
自分がなぜ創作を20年近く(驚愕)も続けてこられたのか理由がわかった。
ただただめぐり合わせに感謝である。
交流という形では返せないけれども、これからもひたすら書きたいものを生み出していくので、読みたい人、飽きていない人は、懲りずに読んでほしい。
山籠もりの職人(売れない)が人恋しくなって人里にでてきたと思ってもらえたら。
もっとディスりたいこといっぱいあるんだよね。ガハハ。自分一人でやれ。