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一次創作でも二次創作でも、物語を考えるときはその背景にある世界を想像する。
大好きな児童文学作家であり文化人類学者でもある上橋菜穂子先生は、「そのモノがあるということは、それを作る仕組みがあるということ」(うろ覚えだけれど、そんなニュアンスだった)と語っておられた。
最近長らく身を置いていたジャンルが歴史系ということもあり、考証は特に念入りにするようにしていた。その時代何があったのか、社会の仕組みは。その時代、その日の月の満ち欠け、気候はどうだったのか。
そういうふうに、まず世界を構築してから破綻のないように、なるべくリアリティを感じられるように、話を組み立てていくのだけれど、夢小説でこれは果たして求められているのだろうかと、思うときがある。
呪術界でどういうシステムがあるのか。呪術高専ってケータイの電波届くのか。機密費の積み上げとか高専の予算とか、都立ってことは五条悟は立場上みなし公務員なのか、とか。私はそういうところが気になって設定を膨らませていくタイプ。たぶん夢小説向きではないんだろう。
夏夢のじゅ博のシリーズは、そういう興味本位から書き始めたものだし、博物館のお仕事モノっぽくしたかった。半分は、こういう博物館で働きたかったという私の願望込みでもある。
そんなわけで、いわゆる”ご都合”系な話は書けないし(読むのは好き)、そんな都合のいいことがあるかい!って思う展開もある。(まあ、二次創作なんて、全部自分にとって都合の良い展開なのだけれど)
でも、きっと読む人にとっては、そんな背景よりも楽しくハッピーなストーリーの方が重要なのだろうし、リアリティがあって喜ぶのは岸辺露伴くらいだろうか。(ドラマ版しか見たことないですがあれは名作)
何が言いたいのかというと、別にオチがあるわけでもないけれど、自分のために自給自足で二次創作をしているオタクなので。私はこれからもこのスタンスで書くことをやめられないんだろうなあ、ということ。
ウケなくてもいいんだよ、自分が楽しいから。