どんなに親しくなっても自分と自分以外が自己を共有することはあり得ず、他人はどうあがいても他人のままだ。これは血のつながりがあったとて例外ではないし、親友にも恋人にも、たとえ共に死地をくぐった戦友であろうとも覆せない事実である。
俺が抱くどんな悩みだって人類の歴史の中で見ればそれはありふれたもので、状況こそ違えど特定の抽象度のもとではそれぞれ気の遠くなるほどに繰り返されてきた類似事例のいち要素にすぎないのは分かっているつもりだ。でも俺はいつだって、俺自身のあらゆる事柄については他人に何が分かるんだと、他人ごときに俺のことが分かられてたまるかと思っているし、また同じように、俺が他人の何かを分かった気で語ることはおこがましい振る舞いだという気持ちも抱いている。自己という存在は当事者にとって、つまり俺にとってそれほどまでに切実なものだし、正しい客観性を持ってしても干渉しえない領域の設定が唯一許される場所だとも思う。
Cogito, ergo sum じゃないけど、自分が信じられる領域にあるプリミティブな認識に基づけば、俺にとって自分以外の存在はすべてが背景というか物語の設定にすぎないし、他人も物語の単なる登場人物だ。俺は常に一人称小説の語り手なのである。客観性を支える第三者的視点はそれ単体では存在し得ないもので、あるとしてもエミュレーションによって構成されるものだけ。
俺がこれまで見聞きするだけだった他人の経験を自分のものとして得たそのときに感慨を抱きがちなのは、今まで眺めるだけだった設定の中に自分が組み込まれていることに気づくという不思議な感覚があるからだ。あたりまえに他人事だったものがぬりっと切実な問題になって待ち構えていること。どんなにリアルだろうが結局は一枚絵でしかない、そういう無関心にさらし続けた背景のなかに、知らぬ間に自分が刷り込まれている感覚。世界が三次元であることをディスプレイの上からたしかめるような営み。