映画ミッシングを観て思った地方で生まれて住み続けること

lensdiary
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2024.6.1 映画ミッシング二回目鑑賞。1回目より冷静な気持ちで見た。

以下、ネタバレ含む。


ミッシングの舞台は沼津。沼津に行ったことがないので現地の雰囲気や生活している方のことはわからないけど、登場人物全員が醸し出す生まれ育った街でそのまま住み続けていると生き方の選択肢が限られている状況から目に見えない息苦しさがあり、沙織里と豊、圭吾に起こった悲しい現実から逃れられない苦しさを環境がさらに重くしているように思った。

近所や職場、学校ではほとんどの人たちが親切。でも、美羽ちゃんがいなくなったこと、圭吾がスーパーでたむろしてる子たちにいじられたり、車のランプを壊される、部屋に石を投げ込まれる、美羽ちゃんに似た子を見つけて部屋を覗いて近所の住人男性に脅されて暴力を振るわれる、など、平和な街の表情とは真逆の暗い面も含む街であることを忘れてはいけない。淡々とした毎日に鬱屈した気持ちをかかえて生きてる人がいる。全員がしんどくても明るく前を向いて生きてるなんてことはない。

善悪を問うような物語ではないから、地方住みの息苦しさや生き方が限られてしまう閉塞感と、地方ローカル局など別の街から目的をもって働いている人との視点の違いなど、現実で違和感を感じていることがそのまま映し出されていることも作品の世界にのめり込んだ理由の一つ。

地方には選べる仕事は少ない。地場産業をやりたい、その産業で成功したいと希望を持って働く人や、別の街の大学へ行ける人は自分のやりたいこと、理想の生き方に向かっていけるけど(それはそれで新たな悩み苦しみにぶつかる)、高校を卒業して地元で就職する人は、限られた求人の中から、通勤時間や勤務時間、給料(手取り)、仕事の内容で選ぶしかない。キャリアをつくるとか何者かになる必要はなく、生活費を得るために地元でできる仕事をするだけ。そこで大事になってくるのがコミュニティー、過ごしていける居場所。家族。生き方がほぼ一つのパターンに集約されて、そこになじめない人は脱落してしまう。

私はどうして圭吾が違法カジノをやったのか、環境から背景を考えてみた。人とのコミュニケーションが苦手な圭吾は、姉夫婦と姪とたまに会うことや職場の先輩 木村(表情変わらないけど優しい)と飲みに行くのが淡々とした生活の中でホッとできる時間、居場所だったのではないか。違法カジノは法律上許されないことだけど、他に逃げ場所が無い毎日の中で唯一仲良くしてくれる先輩との関係性を続けて社会から外れないためには、自分だけ正義感を出して仲間から外されないように木村についていき手を出してしまう(その場面はない)。よほど強い正義感を持てるのならそのまま一人で生きていられると思うけど、圭吾と木村のやり取りを見ながら、限られた地域の中で、コミュニケーションが苦手な性格でも仕事をして人間関係もできている場所から離れる勇気はなかなか出せることではないと想像した。

沙織里と豊も仕事は生活のためであって、二人の毎日、気持ちを支えているのは家庭と美羽ちゃんの育児。家庭内は、いろいろあっても明るく楽しい場所だけど、家事と育児、仕事のルーティンに追われていると、息抜きが必要。”推し活”は、沙織里にとって、自分を取り戻すために必要で大切なこと。

大切な美羽ちゃんが行方不明になり、何も情報が集まらなくて精神的に追い詰められているのに、沙織里と圭吾の息抜きが責められてしまう背景は、アクセス数狙いのアカウントを除き、遊び・息抜きを余計なものと考えている人の多さを実感して恐ろしくなる。

責めている人もスマホやPCから離れたら、好きなドラマを見たり、喫茶店でコーヒー1杯とケーキひとつだけで何時間もしゃべってやるべきことをしていなかったり、なにか息抜きをしてるのでは…。

立場が変わると無責任、無意識に、無関係な人の行動や人間関係を簡単に批判してしまうことは、豊が表現していたのが印象的だった。

テレビ局側の砂田は、地元を取材しているうちに都会には無い独特の息苦しさに気がついた時はあったのか?他に逃げ場所が無い地域の中でも、取材を通して住民の優しさやあたたかさを日頃から感じ取っていたとすれば、報道陣として事実を誠実な姿勢で伝える責任感を持ちながら、精神的に疲弊している沙織里と豊に過剰な情も芽生えてしまったのでは。情報を伝える相手の顔がわかりすぎているが故の難しさが、砂田がベンチで頭を掻きむしって出したくない情報を放映されてしまう苦しみにもがく後ろ姿から痛いほど伝わってきた。

二回目見た時にグッと込み上げたのは、圭吾の先輩 木村が、圭吾が違法カジノをやっている時に美羽ちゃんがいなくなったニュースが流れた時に巨人広島戦を見て喜んでいた自分を悔やんで、もう野球を見られないと言ったセリフだった。

違法なことはダメだけど、もし他の娯楽であったとしても叩かれていたと想像できる。息抜きは間違いではない。困難な状況におちいった時に楽しいことに気持ちを向けるのはダメなのか。少しでも笑うことは許されないのか。しんどい状況でも、自分で少しでも明るく過ごして困難に立ち向かおうとするギリギリの気持ちが、その人の命を支えることだと想像できる人は少ないのか。

私は、美羽ちゃんはどこかで生きていると思って見ていた。10か月と少し、身体が繋がっていた沙織里が希望の光を信じているから、絶対どこかにいると思う。私は出産の経験はないが、母親の直感は科学や何かの教えでは説明しきれない絶対的に強い力があると信じている。

@lensdiary
日常で思ったこと