私の息子には障害があり、小学生の時は育成学級に在籍していました。(今はもう成人し、障害者枠で就職して大手デパートに勤務しております)(余談ですが、障害者枠であっても、給与から引かれることになってるものは全部しっかり引かれるのよ~)
さて。2年生の時でしたか。普通学級の子供たちに「この子なら大人に言いつけないだろうと思った」という理由で狩られました。街中を追いかけ回され、くたびれ果ててスーパーのすみっこに隠れた息子を見て、「何か様子がおかしい」と気付いて助けてくれた人がいます。
その人に、今日ばったり出会いました。
息子がスネることなくヒネることなく大人になり、今は毎日仕事に行き、汗水流して働いていることを喜んでくれ、「あの時、何かおかしいと気付けたこと、息子くんを助けることができたことは、俺の中で大きく何かが変わった出来事やった」と仰ってくださいました。「(息子を狩った)あいつらに言うてやりたいな!お前ら、どんな人間になっとんねん!」
助けるということ。
先日私も人を助けました。その折に痛めた腰はようやっと鎮痛剤を服用しなくても大丈夫になってきたところです。人を助けたことで、私の中で大きく何かが変わったかと言うと・・・いやもう腰の痛さに夢中でそれどころではなく。恥ずかしい限り・・・。
でも、何か私の基盤のようなものに、しっかりとしたものがひとつ積み重なった気がします。
誰かを助けたいと日頃から考えてアンテナを張り巡らしていたわけではなく、突如訪れた事態に、その時私しかいなかったから無我夢中で、という状況だったんですけどね。それでも「誰かを助けた。その人は無事だった」って、かなり「良くやったな私。良く頑張りました」と思えます。
「お礼があるわけでなく、ただ痛い思いをして。バカ見ちゃったわね」と言った人がいたけれど、お礼の言葉より「私、やるじゃん。良く頑張りました」と思える、自分の基盤のようなものにしっかりとしたものがひとつ積み重なった気がするほうが意義があるように思えるのですが、いかがでしょうか。