半月ほどで書くのをやめてしまった日記帳が数冊あり、扱いに困っている。なんとなく捨てるには忍びないし、取っておいたところで継続性のない人間だと証明しているようなものだし。
そんな私だが、昨年の師走に入ったころから日記を書き始め、2ヶ月余り。日記と呼ぶよりも走り書きのほうがふさわしいかもしれないけれど。
それは、気を抜くと、あまりにも澱みなく、記憶からするすると日常が滑り落ちていってしまうのが急に怖くなったからだ。
今、こどもたちとの暮らしはこんなにも実感を伴い、起伏にあふれるものだけど、自分がこどもの頃を思い出すとどうだ。隣の席の男子の筆箱の中身が赤ペンと鉛筆数本しかなかった驚き、昭和の匂いがまだ色濃く残る小学校のひんやりとした廊下、登校途中にある家の塀をサラダせんべいみたいだって思っていたこと………………どれもあまりに断片的で、かつ小さく圧縮されてしまっている。
ということは、きっとこどもたちもこの日々を忘れてしまう。毎日はこんなにも確かな手応えがあるものなのに。こんなに笑った今日がいつか小さなかけらになって、永遠に取り出せない場所にしまわれてしまうかもしれない。それならせめて私が記憶しておきたいのだ。君たちがいつか忘れてしまう日々の形を。