ちょっとだけ昔の、未熟なエッセイが出てきた。私には、家庭の事情で今まで機会を失ってきた、人と関わること・感覚を味わえるようになることが必要らしい。
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人と親しく関わると、決まって苦しくなる瞬間がある。どこか、熱量の器、それに入っている熱が違うのだ。
その熱を自分の内に置いたままで居ると、気まぐれにその熱は顔を出して、私や周囲を壊していってしまった。そんな経験から、わたしは人間以外に向き合った。歌や楽器、絵、書道、最後に辿り着いたのが、書くことだ。
振り返ると、小学生の時から先生への手紙、日記、筋もぐちゃぐちゃな物語…文章を書くことで、わたしはギリギリのところで狂わずに居られた。先生たちは、毎日原稿用紙5枚越えの手紙を読んで、必ず返事をくださった。これが無ければ、わたしは生きていたか正直わからない。苦しさはゼロになったとは到底言えないが、書けば生きることに対しての苦しみが少し減った。
なぜ書くのか。
書くことで叶えたい目標は、確かにある。この一文を書くために生まれてきたと確信して死を迎えたい。「すごい文章」なんて言葉にできる賞賛ではなく、叶うなら読んだ瞬間、息が止まる一文を書きたい。しかしそれら目標すらもおまけに過ぎず、本音は「狂わずに生き延びるために書く」のだ。
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