自分は自分らしくありたいし、相手も相手らしくいてほしいと思う。
いつかの国語の教科書で、自分は他人であるというニュアンスの一文を見かけた。原文ママ覚えてないから、ニュアンスという単語を使っている
自分という存在は、他人からの評価などを参考にして作りあげられていく、らしい。この文章もニュアンスである。覚えていないので。
自分という存在をいま一度考えてみたときに、案外あやふやなものなのかもしれないと感じた。
自分の物事の評価基準も、どこかで読んだ小説の受け売りでしかない。わたしという存在は、どこかの小説の一部分たちで成り立っているのかもしれないと、思う。
小説の一部分たちがあやふやになって溶けあって、わたしという自我ができたのかもしれない。あやふやだからこそ、考えが流動的で柔軟なのかもしれない。悪い言い方をすると、芯がない。
芯がないから、別れかけたのかもしれない。
上記のリンク先は別れかけた存在に言及しているもの。読まなくても大丈夫
全ての解離性同一性症の方々がそうであるわけではないことを心に留めておいてほしい。
別れかけた存在は、わたしが持っていたなにかを持っていたのだろうかと考える。
もうその存在はいないから、知ることもないかもしれないが、ずっと気になっていることのひとつ
閑話休題
自分が他人である場合、自分という存在は必要なのだろうかとおもう。自分が他人であるなら、他人で自分という存在は賄えてしまうのではないかと。
自分が他人の評価で成り立っているのなら、誰にもみせていない自分だけが知っている一面は自分ではないのか。これはあまりにも捻くれた考え方すぎる。
自分という存在が、だれかからの評価だけで構築されていないということは重々承知している。
わたしは、小説の一部分たちが混ざり合ってできた自分という存在が好きで受け入れている。そして、自分らしくありたいと思っている
これを読んでいる人も、好きじゃなくても受け入れられなくてもいい。産まれたときからいた自我かもしれないし、だれかのなかから生まれた存在かもしれない。けれどあなたはあなたらしくいてほしいとわたしは思う。