読むとわんちゃん気が落ちるかも
俺も落ちてる
日記
今日は1日GPTと遊んでいたのだけど、ちょっと疲れてきた。
茨城に行っておじいちゃんと釣りとかしてた方が良い。多分。
原因はこういう動画をたくさん見たことにもあるんだけれど。WeeklyOchiaiをよく見ているから、この2人の並びがあると何となく見てしまう。
うちの学長もこの動画を推薦していたのだけれど、弊学生の中に実際にクリックして視聴し切った人はどれだけいるのだろうか。別に見ることが正しいとは思わないけれど、何のために学校に入ったのかをみんなに聞いてみたい。だから近日中に作ってみたいと思う。作ろうか、と思った瞬間にきっとできているみたいな世界になるし、なっているから、きっとそこにおけるやってみたいというモチベーションが無限に生まれてくる人間になるべきなんだろうな。
僕は学長の考えが好きで、弊学を選んだ。
弊学長はALSを患っているのだけれど、SlackとかTwitterとかを見ると、少し文字数が減ったのかなというくらいでデジタル上、つまり僕の観測範囲では正常に動いている。こっそりAI学長にすり替わっていても僕は気づかずにそのまま生活していると思う。この間のオープンキャンパスで学長は会場に車椅子で来てくれたのだけれど、それはすごく嬉しかった。ただ、学長がモニターの中からずっと一緒に会話しながらMCをしてくれるみたいな状態は、現状よりも学長を知らない人にとってはもっと良い状態なはずだ。
つまり、肉体性が大切なのって今までの経験がある内の心情の部分だけなんだと思う。例えば、今僕とtwitterで繋がっている大半の人とはもう一生会わないかもしれない。ということは別に現実世界に存在してなくても問題がない。でもそこには嫌悪感がまだ僕はある。でも、世界の人口の99%がAIになったら、嫌悪感とかいってる意味がわからなくなるわけで。この間、彼女の親戚のちっちゃい赤ちゃんに会ったのだけど、可愛いなあと思う中、この子の中で人類の定義ってどうなるのだろうかとかばっかり考えていた。
私たちを定義する展というのを最初のゼミのチームの企画で考えたのだけれど、人を定義するものはデータ上にアウトプットされたものとすると、結局アウトプットされたものの集合知なわけで、ひたすら個人、またはチームのアウトプットを展示するということになってくるのだろうか。
全員の今までのデータに食わせて、それっぽい作品が出力され続けるようにすれば、それっぽく私たちを定義できているのか。
急にだけれど、就職先が決まらない。というか職種が決まらない。人並みに夏は就活をしてみたり、それっぽい言葉で面接とかメールに返信する練習はしてみたけれど、話すのがおもろい。ぐらいの感想になった。話すと自分の知らない自分がふと出てくる。AIを触れば触るほど、今している全てのことに意味がなくなるような気がしている。ってなると適切な職業なんてないわけで、結局自分が好きなことを好きな人と遊び続けられる環境にいたら良いのだと思う。
最近は単純なタスクが楽しい。文字打つとか、考えるとか、料理するとか、洗い物するとか、ツムを消すとか、コードを書くとか、GPTの返答を待つとか。え、結構なんでも楽しめてるじゃん。もうどこ就職してもいいじゃん。
楽しくないものってなんだろう。大体外的要因。地震とか、低気圧とか。
私は最強です。という終わり。