大学生活の振り返り

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あと一ヶ月もすれば卒業式が行われ、大学生というおそらく人生で最も充実すべき時期が終わる。この四年間を大まかに振り返ってみたい。

  • コロナウィルス普及のためほとんどオンライン授業だった。5月かそのあたりは大学の図書館に行くのにも書類の作成が必要でいろいろ難儀していた。

    受けてた授業は基本的に語学、教養科目が多く、正直あまり覚えていない。

     文学部を正直どこか過大評価しすぎたのではと思うようになった。これは後期の学芸員概説だったか、この授業は学芸員を養成するための授業で、資格の取得よりも就職を視野にいれた授業なのだが、教員が顔に手をつけると精神に不安のある人物に思われるのでやめた方がよいという説明を聞いて仰天した思い出がある。文化は本来こうした考えをなるべく回避するために存在するのではなかったか。(ちなみにこの時期だったかヘーゲル哲学を担当する非常勤講師がオンライン授業中にxvideoを鑑賞し解雇となった)

  • 二年になると専門教育が始まる。ちなみに一年次に体育(オンライン)を落単したために一年に混じって運動していた。まあ早朝に二子玉の散歩道を通学するのは案外心地よいものだったのでよかった。東浩紀『観光客の哲学』を呼んだのはちょうど二年の終わりごろ、大学生の時期に今後の出発点となる書籍と出会えたのでよかった。

  • 三年になるとゼミが始まる。中高と積極的に人と関わってこなかったのでゼミ発表時にはよく質問とかしてた。ちょうど後期になると新図書館が完成したのがよかった。この頃から徐々に歴史学の関心が薄れ、哲学方面へ関心が向くようになる。けれども所属している大学には哲学の授業が少なく、数少ない哲学の授業も正直酷かった。シラバスをみてハイデガーの授業を楽しみしてたのだが、教員は「今の学生さんにはどうせハイデガーやニーチェに興味がない」と言いながらほとんどが生命倫理の授業だったのが惜しい。(その教員の舌打ちしながらオンライン授業を準備する様子や学歴コンプレックスを拗らしているためか、参考文献の筆者との格差をよく自虐していた事は覚えている。)

  • 四年になると就活が始まる。正直な部分、自分には出世欲も野心もなく、ましてや結婚のような費用のかかるイベントの予定もない(ついでに人生の目的も!)。結局大学のキャリアセンターに貼ってあった企業の二社のみESに提出し、うち一社から内定をもらったので入社が決まるようになった。

    卒論をもっと拘ればよかったという後悔もあるが、正直アウグスティヌスとアリストテレスという哲学史の中でも難解な著作を選んだ都合上致し方ないという気持ちも半分ある。(あるギリシア哲学研究者はアリストテレスの著作を読書会で取り上げることを非常に後悔したらしい。)

    総評

     入学前の目標として主体性の会得、人間関係の構築を設定した。サークル活動やゼミでの飲み会を積極的に参加したが、結局長期的な人間関係を築くことができたかと言われれば肯定しにくい。(例えば授業のない日や土日に主体的に友人と出かけるというような行為は結局4年間一度もなかった。)

     自分自身は孤独に耐性があると思っていたが、どうしてもゼミ生に所属している性格の良い人々と接すると会話をする機会というのが恋しくなってしまう。結局のところ長年抱いていた交友関係の拒絶考えはちょっとした被害妄想と人と仲良くなれそうにないという発想は自己を偽ることで守っていたのだろう。

     『嫌われる勇気』の筆者の一人であるギリシア哲学研究者の告白があたまから離れない。彼は人生で一度もキスをしたことがないために、結局ある書籍の一部分がどうしても理解できなかったと回想している。

    大学の交友関係は人生のなかで友人(資本主義の絡まない)を作れる最後の機会だったのだろう。けれどもそうした時期にもかかわらず自分は卒業後に覚えてくれるような友人を作れたのだろうか。

     これからの人生は一人でいるにはあまりに長すぎる。両親が死別したら本当に自分は一人ぼっちなのか、早くこの問題に逃げずに対処すればよかったのか、それとももう遅すぎたのか、自分にはもうわからない。