あらすじは以下の通り。
かつてチェスの“神童”と呼ばれ、長じて卓越した武術家(太極拳推手の世界選手権覇者にして、黒帯の柔術家)となった著者が、トップクラスの競技者になるためのart of learning(習得の技法)を語る。技能を倦まず開墾し続け、競技者としては千人に一人、あるいはそれ以上の領域を目指す、「超」能動的な学習術である。
優れた競技者になるための内的技法は競技の種類によらず驚くほど共通していると著者は言う。「インスピレーションを得るための公式や型紙は存在しない。だけど、それを得る自分なりの方法を発見するために辿るべきプロセスならある」(第18章)という表現に象徴されるように、鍵となるプロセスを意識的に辿ることが、より高い集中力、より高いパフォーマンスレベルでの学習につながっていく。チェスを武術に、武術をチェスに翻訳できるこの著者ならではの離れ業を用いて、「数を忘れるための数」「より小さな円を描く」「引き金を構築する」といった上達の足掛かりとなるプロセスが、印象深く描出されている。
著者が他ジャンルのトップアスリートやそのメンタル・トレーナーから授けられた洞察も、ここには注がれている。本書が提示する学びへの開かれたアプローチ、学ぶ喜びについての衒いのない、ひたむきな語りは、読む者に自らの可能性を顧みさせる力をもっている。
著者 Josh Waitzkin は競技チェスの世界で全米ジュニア選手権(21歳以下)で2年連続優勝、世界チェス選手権でもベスト4入りし「ボビー・フィッシャーを探して」という有名な映画のモデルにもなった。
フィッシャーはかつてチェスの世界チャンピオンだった人物で、冷戦下でチェスのタイトルを独占していたソ連から初めて世界チャンピオンを奪ったアメリカ人としてアメリカでチェスのブームの火付け役となった。著者も若くしてチェスの才能を発揮したことで周囲からの期待を受け、チェスの大会に出ればファンが集まってくるようになった。
しかし、勝ちを追い求めざるを得ない競技チェスの世界に長い間浸かり続けたことや意図しない注目を得たことでチェスに対する好奇心や集中力を失ってしまい、仏教や道教などの哲学に傾倒していく。やがて著者は哲学の実践として太極拳のレッスンを受けるようになり、チェスとの共通点を見出して練習を積みながらのめり込んでいく。
太極拳というと公園でゆったりとした動きをしている老人を思い浮かべるが、あれは「套路」という型のようなもので、「推手」という実戦形式の太極拳もある。推手はさらに「定歩」と「活歩」の2種類に分かれる。定歩は狭い足場に立った状態から向き合った相手を足場から離せば得点、活歩は直径6メートルほどのリングから相手を押し出すか倒せば得点という競技で、レスリングと合気道を足して2で割ったような格闘技に見える。
チェスと太極拳推手は一見して全く違う競技のように思える。しかし、著者は二つの共通点を見出しながら太極拳推手に上達し、最終的には台湾で開かれる世界大会で優勝するまでの実力を身につけていく。本書はその学習プロセスに焦点を当て、著者がチェスから太極拳を身につける過程で身につけた「何かしらの技術を習得するための方法」を伝える本だった。
本書の中で私が特に共感できたのが「小さな円を描く」という箇所だ。基本となる型を磨き続け、その外形をより小さく凝縮していく。パンチであればより小さな動きで同じ力を出せるようにする。
小さな円を描くには、基本に熟達しなければならない。チェスであればオープニング(定跡)やチェス・プロブレム(詰将棋)を通じて駒の価値や相対的な関係性を研究することで、さまざまな状況に対処できるようになる。最初から派手な指し手ばかりを研究しても実際に役に立つことは少ない。太極拳推手であればスパーリングだけに没頭するのではなく、套路を通じて基本的な動きを洗練させることが重要になる。
私自身は著者ほどではないが武道(少林寺拳法)、格闘技(ボクシング)をそれぞれ数年間やったことがある。ミットやサンドバッグでパンチを打つ練習をするのだが、動かない相手には当たるパンチでもスパーリングで動く相手には全く当たらない。動く相手に当てるには予備動作を少なくしたりさまざまな攻撃パターンを持つ必要があるのだが、それを身につけるには鏡の前のシャドーボクシングやトレーナーとのミット打ちで姿勢を確認したりサンドバッグで適切な間合いを測ったりするなど基本的な練習が重要で、派手な必殺技のようなものは存在しない。まさにこれが「小さな円を描く」に通じると感じた。
長く続いている技術で「基本」とされているものはそれだけの時間で洗練されてきており、効率よく技術を身につけるための要素が詰まっている。