感想: 科挙 - 中国の試験地獄 / 宮崎市定

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あらすじは以下の通り。

かつて中国では、官吏登用のことを選挙といい、その試験科目による選挙を「科挙」と呼んだ。官吏登用を夢みて、全国各地から秀才たちが続々と大試験場に集まってきた。浪人を続けている老人も少なくない。なかには、七十余万字にもおよぶ四書五経の注釈を筆写したカンニング襦袢をひそかに着こんだ者もいる。完備しきった制度の裏の悲しみと喜びを描きながら、試験地獄を生み出す社会の本質を、科挙制度研究の権威が解き明かす。

中国の官吏登用試験「科挙」は6世紀に隋で始まったとされ、20世紀初頭の清末期に廃止されるまで1300年以上の歴史がある。

当初は皇帝(天子)による独裁権力を確立するための施策として始まったようだ。晋が分裂したあと中国では 3 世紀ほど戦乱の時代が続いていたが、6世紀の終わりごろ隋によって統一された。

当時の中国では(日本でいう平安中期の藤原氏のように)特権的な貴族が中央や地方の官吏の地位を占めており、皇帝の権力が小さかった。隋の初代文帝は統一時の勢いを利用して中央集権を進めるために、試験に及第した者のみに官吏の資格を与え、彼らの中から中央・地方の官吏を選ぶことにした。

隋が滅んだ後の唐しかり、歴代の王朝にとっても中央集権を進めたり民衆を統治する上で都合が良かったので制度として1300年以上にわたって続くことになった。試験内容は原則的に古典の理解や詩の能力を問うもので、試験の数は増えたものの出題の内容が根本的に変わることはなかったようだ。

一方で、試験制度は徐々に変わっていった。元々は地区予選的な試験(郷試)に合格したあと首府で行われる試験(会試)にも合格すれば官吏となる資格を得るという制度だったが、試験官と受験生の間で師弟関係を結ぶという慣習があり(試験に受かれば一生安泰であるから恩人と言えるだろう)それが官吏の間での派閥形成につながっていたので、これを避けるために宋の時代には天子自らが最終試験を行うようになった。このように、出題内容とは異なり時代を経るに従って試験制度も少しずつ変わっていったらしい。

最後の科挙は1904年5月に行われたが、この頃ヨーロッパでは産業革命がとっくに終わって様々な産業が発展しており、同じアジアでも日本は明治維新を経て急速に近代化され教育制度も整備されていた。このような世界で古典が役に立たないとは思わないが、官吏登用試験が一発勝負でその内容も古典の理解や詩作だけでは、それで選ばれる公務員の能力は時代にあっていなかった可能性がある。

試験は基本的に誰でも受けられる(若干の職業差別を除く)が、長ければ合格まで数十年単位で時間がかかるので生活に困らない程度の財産が必要であり、試験会場への旅費や宿賃、試験管や事務員への謝礼、合格時の宴会や交際費など大金を要するので庶民が受けるのは難しかったようだ。

科挙は(当初は)極めて先進的な制度で、欧米で試験による公務員の登用が始まったのは科挙より1000年以上経ってからだった。一方で、中国では科挙が廃止されるまで学校のような継続的に教育を行う場所は発展しなかった。学校自体は設立されたが、結局は科挙を受けないと官吏になれないので生徒にとっては学校があくまで予備試験的な役割しか果たさず、国も教育に金を使う動機がなかった(民間で勝手に育った人材を科挙で選べば良い)。

元々は中央集権的な政治体制を確立するために優秀な人物を選ぶ制度だった科挙だが、出題内容や教育制度に進歩がなかったので民衆の統治を担う人物を選ぶ制度としては非効率的になってしまった。

制度というものは一般的にこうなりがちで、その制度の目的が浸透している内は有効に機能するが自己の利益だけを優先する制度ハッカーみたいな人が増えていくとだんだん無意味化していくと感じる。

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本書では科挙における不正対策についても触れられている。例えば、答案を審査する者は試験開始から審査終了まで試験会場から出られないのだが、複数人で答案をチェックし同じ文章を書いている者を検出して全員を不合格にしていたらしい。(現代の試験予備校のように)予想問題集を作って売っている人間がおり、朝廷ではそれを禁止していたそうだ。

また、答案を審査する者が特定の人物に便宜を図ることが無いように、答案の姓名には糊で紙を貼り付けて座席番号のみで審査していたらしい。合格不合格の判定後に糊を剥がすので、答案審査中は受験生の姓名は分からないようになっていた。

@llll
経理 → プログラマー