感想 - さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生 / 伊東乾

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公開:2023/12/24

あらすじは以下の通り。

なぜ、彼はサリン事件の実行犯になったのか

普通の大学生と、テロリストの分岐点はどこだったのか。地下鉄サリン事件の実行犯となった同級生の足跡を辿り、見えてきた日本の暗部とは…。第4回開高健ノンフィクション賞受賞作。

オウム真理教による地下鉄サリン事件で実行犯の一人として死刑判決を受けた(2018年に執行済み)豊田亨と大学の同級生だった著者が、自分自身の過去と豊田の足跡を辿りながら彼がテロリストになった分岐点を探りつつ、オウム真理教によるマインドコントロールの手法について分析した本。

タイトルにもある「サイレント・ネイビー」は海軍軍人の美徳とされる言葉で、海軍はあれこれ政治に口を出す陸軍と違って黙って任務を遂行し失敗すれば黙って責任をとるという意味だ。「さよなら、サイレント・ネイビー」というタイトルからは、被害者感情に配慮してオウム真理教やサリン事件について多くを語らない豊田に対して、将来的な再発防止のために知っていることを全て話すべきだという著者の主張を含んでいる。

同じく地下鉄サリン事件を扱った村上春樹の「アンダーグラウンド」が事件の被害者やその周囲の人物へのインタビューを題材としているのに対して、こちらは加害者側の中心人物の一人を取り上げた作品となっている。

村上春樹は「約束された場所で」という続編でオウム信者へのインタビューも行っているが、対象は一般の信者であり数々のテロ事件を起こした幹部クラスの取材は全く行っていない。理由は次の通りだ。

そのような姿勢で取材したのは、『加害者=オウム関係者』の一人ひとりのプロフィールがマスコミの取材などによって細部まで明確にされ、一種魅惑的な情報や物語として世間にあまねく伝播されたのに対して、もう一方の『被害者=一般市民』のプロフィールの扱いが、まるでとってつけたみたいだったからである

- 村上春樹『アンダーグラウンド』

著者は「アンダーグラウンド」を読み、同書籍が「オウム=加害者、一般市民=被害者」という二項対立で「巨大な暴力に直面した一般市民たち」の物語として地下鉄サリン事件を描くために、オウム幹部のプロフィールをマスコミの取材で作り上げられた分かりやすい姿に類型化してしまったと理解した。

ただ村上春樹の執筆動機からするとそうなるのは当然で、マスメディアと異なる視点で事件を描いた点で「アンダーグラウンド」は高く評価されている。

しかし、結果としては村上自身が「暴力に直面した市民」の側に立って意図的に実行犯達から距離を置いてマスメディアの報道や自分の印象から彼らを捉えたことで、なぜこのような事件が起きたのか、どうすれば再発を防ぐことができるのかに関しては答えがでないまま実行犯を「こんなことはするべきではなかった」とただ断罪して終わる。

このように作り上げた虚像で真実に蓋をしてしまうから、いつまで経っても同じ構造が生み出される。自分とは違う特殊な人間が起こした事件と安心し「加害者」を断罪して終わらせる。本書はある意味で村上春樹「アンダーグラウンド」へのアンサーソングとも言える作品だ。

著者は本書において、豊田亨との出会いや過去の会話、豊田がオウム真理教に「出家」した後に教団の資料に登場する彼の発言、オウム関連の裁判記録、教団施設などを調査しながら、自分と同じ一般的な大学生だった豊田がどのようにして凶悪なテロ事件を起こすに至ったかを分析していく。

本書に通底するテーマとしては「局所最適、全体崩壊」という言葉がある。オウム真理教に限らず第二次大戦中の旧日本軍や当時の東京帝国大学など、一人一人は真面目な人間が集まったとしても、組織全体としては暴走し崩壊する。そして暴走の責任を(死刑などで)個人に取らせ水に流すことで社会全体としては教訓をいかしきれず、やがて同じ構造が繰り返されてしまう。

全体としては非常に面白い本だったが、自分が本書を読んでいて気になった点がある。それは、著者が意図的に「未決囚および確定死刑囚となった後の豊田亨」との交流を省いていることだ。これは著者が豊田の希望を尊重したためだが、読者からすると「なぜこれほど肩入れするのか」という背景が分かりにくくなっていると感じた。

最後に、死刑制度について。

豊田亨は私にとっては大学の部活の先輩にあたり、私が死刑制度について考えるきっかけになった存在だ。20歳以上も年上で自分が大学生の頃には既に東京拘置所にいたから、当然ながら面識はない。しかし、かなり年上の先輩に彼の支援活動に携わっている方がおり、酒の席でその話を聞いたので存在は知っていた。部の公式な歴史では知る限り全く触れられていない。

結論から言うと、自分は死刑制度に対しては消極的反対派である。「反対」する理由は刑法の目的に沿っていないと考えるからで、「消極的」である理由は反対の根拠に確信がないこと、そして賛成派を説得して意見を変えてもらうほどの情熱がないからだ。

刑法の目的は犯罪を減らして社会を安定させることだが、その手段である刑罰に対する考え方は大きく分けて「応報」と「教育」の2つに分かれている。

「応報」とは犯罪に応じた重さの刑罰を与えることで再犯防止や犯罪の抑止に繋げるという考え方で、ハンムラビ法典の「目には目を」のように古代から存在している。「教育」とは刑罰を犯罪者の更生手段の一つとみなす考え方で、これに従えば更生の機会を奪う死刑は廃止すべきという結論に至る。

死刑は(死ぬので当然だが)教育効果がないことは明白であり再犯もあり得ないのだから、犯罪の抑止効果があるかどうかという点が重要になる。しかし、死刑制度に重大犯罪を抑止する効果があるという仮説は証明されていない。例えばフランスでは1981年に死刑が廃止されたが、その前後で殺人事件発生率に大きな変化は見られなかった。

死刑の抑止効果が不明確なのであれば、なぜ重大な犯罪を実行したのか、どうすれば再発を防げるのかを本人から社会に還元させるのが長期的な社会の安定に繋がるのではと私は考えている。

@llll
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