あらすじは次のとおり。
元禄四年(一六九一)に三井高利が開設した三井大坂両替店。当初の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして成長する。本書は、三井の膨大な史料から信用調査の技術と法制度を利用した工夫を読み解く。そこからは三井の経営手法のみならず、当時の社会風俗や人々の倫理観がみえてくる。三井はいかにして栄え、日本初の民間銀行創業へと繋げたか。新たな視点で金融史を捉え直す。
本書のタイトルとなった「三井大坂両替店」は現在の SMBC の前身の一つで、1691年に現在の大阪市中央区高麗橋一丁目に設立された。この頃に活動していた金貸しとしては他に現 MUFG の前身である鴻池屋善右衛門家や大同生命保険の前身となった加島屋久右衛門家などがあるが、多くは諸藩の領主に融資する大名貸を営んでおり三井のような民間相手の金貸しは少なかった。
幕府は江戸初期から西国の直轄地から得た年貢米を大坂で換金し、江戸に送金していた。同じように全国の諸藩も年貢米や特産品を大坂で換金し、江戸の藩邸に送金していた。当初は江戸に陸路で資金を輸送していたが、途中の経路となる宿駅に与える負担が大きかったことから1691年以降は大坂に店舗を持つ両替商に送金業務を委託することになった。
三井はこの送金を担う一員として抜擢され、三井大坂両替店が設立された。この送金業務には以下のような複数の「役得」があった。
幕府公金を江戸で上納するまでの90日間は資金を自由に融資に転用できた
↑の名目で顧客に融資し債務不履行となった場合、幕府の権力を使い最優先で担保を回収できた
三井大坂両替店ではこの幕府公金を元手とし、手形や商品・土地家屋などを担保に融資を行っていた。時代によって貸出残高には大きな変動があるが、幕府公金を使った貸付は時代が進むに従って増え1800年以降には貸出残高の大部分を占めていた。やがて三井らによる貸付残高は幕府公金として預かる金額を超えるようになったが、幕府はこれを黙認していた。三井は手厚い債権者保護を受けることができ、顧客は貸倒リスク分だけ低い金利で調達ができたので双方にメリットがあった。
当時の江戸は人口100万人を超える大都市だったが周辺の生産地はその人口をまかなうのに十分ではなく、全国から大坂に集まった商品が江戸に送られていた。つまり、資金だけでなく商品についても大坂→江戸の流れがあった。貸付だけでなく、以下のような一連の為替業務で手形を割り引いて買い取ることにより利益を得ていたようだ。
江戸商人は大阪商人から商品を仕入れ、大阪商人は商品を江戸に送る
大阪商人は売掛債権を手形として(仲介を経て)三井等の両替商に売る
両替商は手形を江戸に送り、(仲介を経て)江戸商人から売掛債権を回収する
本書では当時の記録や法制度を参照しながら、三井の組織構造、経営方針、担保査定や信用調査の手法、顧客との関係性、当時の人々の倫理観などを明らかにしていく。
経営においては現代と同じく、担保価値の精査や信用情報の調査、さらに組織的な審査などが重要視されていたようだ。例えば、商品を担保に取るときは原則的に年貢米など藩によって品質が保証されているものを重視(年貢米の品質は諸藩が発行する米切手の価格に直結したので、各藩は厳しい品質検査を行なっていた)し、必ず実地で品質を確認したり資金用途の合理性を調査していた。また、借主の取引先に聞き取りを行い、その商売の安定性や人物の信頼度についても調査をしていた。家屋や土地を担保に取るときは借主の申告通りの面積があるか、周囲の家屋や土地が直近どれくらいの価格で取引されているか、家族構成や経歴、近所の噂話などを精査の上、三井の重役たちが社内規則に照らして融資の最終判断を行なっていた。
審査後の成約率は 15~ 25% 程度と高くはなかったようだ。不良債権による未回収損失を含む貸付の利回りは 6.5% 程度で、これは前述の鴻池屋善右衛門による大名貸しの利回りより高かった。
本書では江戸時代の金融業の姿が描かれている。現代の金融機関でも担保の査定や信用情報の調査などを行なっているだろうが、三井大坂両替店には江戸時代ならでは(?)の活動もあって興味深い。例えば、信用調査にあたり借主の個人的な生活の様子を取引先や近所の住人に尋ねていたようだ。借主の家で周囲に伝わるほどの揉め事があったり借主が人間的に信頼できない人物だったり遊興に大金を注ぎ込んでいれば、十分な担保があっても貸付は行わなかった。一方で、信頼のおける人物と評価された場合は資金繰りが悪化したとしても利息減額や返済猶予など特別な対応がされていた。三井大坂両替店は優良顧客との継続的な取引によって利益を得ており、少人数の使用人で高い利回りを稼いでいた。
金融業は今も昔も借主の信用調査が重要ということがよく分かる本だった。