あらすじは以下の通り。
「ホールアース・カタログ」にはじまり、環境問題からハッカー文化、デジタル・テクノロジーなど、現代のビジョンをいち早く示し続ける稀代の人物の全貌に迫る。
スチュアート・ブランド Stewart Brand (以下、ブランドと呼ぶ)はアメリカの作家・編集者で、1960年代の終盤から1970年代初頭にかけて大ヒットした「ホールアース・カタログ」という雑誌を作った人物。1971年春に出版された最終号は150万部が売れ、ブランドは「シリコンバレー」と呼ばれ始めた前後のベイエリアでカウンターカルチャーのアイコンとして大きな影響力を持っていた。
広告を掲載せず自分たちが必要だと考えた知識やツール、その入手方法を載せるという当時としては珍しいと思われるスタイルだったが、膨大な部数が売れたことで利益は出ていた。
ブランドは XEROX の PARC やスタンフォードの SAIL、更にマウスの発明者として知られるダグラス・エンゲルバートの研究室等にも出入りしており、Apple 創業前後のジョブズやウォズニアックが参加していたコンピュータ愛好家団体 "Homebrew Computer Club" に資金を提供するなど、現代に続くパーソナルコンピュータの源流にいる人物でもある。"Personal Computer" という言葉を生み出したのもブランドらしい。
私自身「カタログ」自体を読んだことはなかったが、スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学卒業式で行った伝説的な講演の締めくくりで取り上げられており、最後の "Stay hungry, Stay foolish." という言葉の元ネタとしてその存在だけは知っていた。その講演でジョブズはカタログを「紙でできた Google」と表現していた。
「ホールアース・カタログ」そのものはインターネット上でも無料で読めるのだが、手元のスマートフォンでいつでも簡単に検索でき世界中の情報に触れられるようになった現代では有り難みは薄いかもしれない。例えばカタログには米国の温泉の地図が載っているページがあるのだが、今なら Google Maps で検索すればよいだろう。
しかし、商用のインターネットがなくコンピュータも高価だった 1960年代後半 ~ 1970年代では貴重なメディアだった。当時はベトナム戦争の泥沼化で学生運動が活発になったりロックやドラッグが流行し、息苦しい管理社会の都市から逃避して田舎で生活しようとする若者も多かった。
「ホールアース・カタログ」はそんな若者たちが自給自足するために必要な品や知識つまり「自分を自由にするための情報」を提供するための雑誌であり、それを示すために「access to tools(ツールへのアクセス)」という副題が付けられた。この副題はツールが世界を民主化し社会を変革する仲介者となる、人類の進歩はテクノロジーの向上がもたらすというブランドの信念を表している。これはバックミンスター・フラーの思想(人々に何か新しい考え方を教えたいのなら、わざわざ教えるのではなくその考え方に導くためのツールを与えれば良い)に強く影響を受けたようだ。
「ホールアース(Whole Earth)」という主題の通り、カタログの表示には完全な球体の地球の写真が使われている。これはブランドが NASA に働きかけて入手したものだが、そもそもブランドはなぜこれを表紙と主題に使おうと考えたのか。
本書によれば、ある日ブランドが自宅の屋上で LSD を使ってラリっていた時に「地球を宇宙から見たらわれわれの惑星や自分の見方が変わるのではないか?地球が全ての人類が共有する一つの家のように見えるのではないか?」という疑問を持ったことから始まっているらしい。後にアポロ9号に乗ってアポロ計画初の宇宙での船外活動をした宇宙飛行士シュワイカートが講演で同じようなことを話しており、その録音を聞いたブランドはその場でシュワイカートに連絡して会いに行ったようだ。フットワークが軽い。
訳者は「ホールアース」を「人類が地球人としての自らの存在に気づいた一つの新しい時代の転換点を示す概念」と表現している。半世紀以上たった今も世界中で紛争が起きており理想には程遠いが、宇宙に旅行する人が増えたりグローバルなコミュニケーション手段が進歩することで時間をかけて変わっていくかもしれない。
現代のシリコンバレーを中心とするデジタルな世界を作り上げてきたのはジョブズのような起業家だけではなく、彼らをプロデュースしたり人を紹介したりイノベーションの種を拾い上げて民衆に繋いでいくブランドのような「メディアとしての人間」もいた。(著者の友人でもある)訳者解説によると、著者の課題意識としてシリコンバレーがなぜこれほど世界に影響を与えるようになったのかを探る中で、そのルーツの一人としてブランドに着目したようだ。
本書はブランドの生涯をなぞりつつ、彼が「ホールアース・カタログ」を作ることになった背景やその行動が周囲に与えた影響、カタログ以後に取り組んでいるロング・ナウ協会について取り上げながら、人類の未来を想像するきっかけを提供してきた「メディアとしての人間」が何をどのように考えていたかを描く。
前半は「ホールアース・カタログ」に至るまでのブランドの人生を取り上げる。ブランドは中西部の裕福な家庭に生まれ、兄にならって軍に入隊するが軍の官僚主義に嫌気がさし写真に凝ったり大学で生物学を学ぶ。写真の仕事を探す中で西海岸に住むようになり、カウンターカルチャーに触れるようになる。鬱から LSD を使っているうちにカタログのアイデアを思いつき、当然ながら当時は DTP など無かったので手作業で雑誌を作り始める。
後半ではカタログ出版以降のブランドが、カタログから離れて建築に興味を持ったり MIT メディアラボの創設に関わったり企業のコンサルティングを行ったり1万年続く時計を作ろうとするなど新天地を目指してさまよう。
シリコンバレーやインターネット、環境問題など世界を動かしたトレンドが「トレンド」になるより先にその場所に現れて本を出したり講演したりイベントを主催し、それが盛り上がった頃には既に去って次の新天地を目指しているという彼自身が "Stay hungry, Stay foolish" とも言うべき人間だった。(彼自身は裕福な家庭の出身で物理的に飢えたことはないが)
書籍全体で気になった点としては、ブランドが何を考えどう行動してきたかを事実や彼自身へのインタビューから構成している本として価値があるものの、出版から半世紀以上が経っており大勢いるであろう「ホールアース・カタログ」を読んだことない人間や当時の事情に詳しくない人向けにそれを補完する知識や情報が欲しくなるという点があった。
例えば本書にはブランドが主催した「ハッカー会議」というイベントでリチャード・ストールマンやビル・アトキンソン、スティーブ・ウォズニアック、ボブ・ウォラス、アンドリュー・フリューゲルマンらがソフトウェアの経済的価値について議論する場面がある(「情報はフリーになりたがっている」という言葉で有名)が、これはオープンソースソフトウェアの歴史や果たしてきた役割を知らないまま読んでもピンとこないのではと思う。
他にも「誰がいつ何をしたか」「それがどこに繋がっているか」と言う記述が多いが、背景となる情報を知らずに読むと事実や人命の羅列で退屈に思えてしまう箇所もあるかもしれない。実際、読者としての自分を見失う箇所もあった(LSD でラリってる頃のブランドを見ながら「なんでこの本を読んでるんだろう?」と思ったり...)。
最近「Where Wizards Stay Up Late(魔法使いが夜更かしする場所)」という ARPANET について書かれた本を読んだ(感想)のだが、同じ時代のアメリカについて知りたくなり本書を見かけたので読んでみた。どちらも現代のデジタルな世界を支えるテクノロジーを作り上げてきた人々の物語だったが、「Where Wizards...」の方は技術者たちの苦労話であり本書は技術者たちと大衆を媒介するメディアとしての人間の伝記という印象を受けた。