※この文章にはネタバレが含まれますが、本作を観るにあたって不安がある方は読んでもいいかもしれません。
昨日、オッペンハイマーを観てきてからずっと色々なつぶやきやレビューを読んだり、以前読んだマハーバーラタ(の沖田解説)を思い出しながら考えていたのですが、考えれば考えるほどあれをバービーと掛け合わせてネットミームにしていた連中と、それを止めずにアカデミーでまで弄った両映画の公式の動きは、信じられないと思ってしまった。
ネットミーム化して遊んでいた連中だけなら、学力も読解力も想像力すらも無くてらっしゃる? という罵倒で事足りるが、公式の動きがひどいもんだったのを考えると、やっぱり広島長崎を描くか、もしくはフォンノイマンを描いてほしかったと感じざるを得なかった。
ノーラン自身が広島長崎を重視してなかったのかな、と感じたこの投稿。(一次資料ではないのであれだけど)
ここで書いておくけど私はクリストファーノーランの作品が好きで、オッペンハイマーの公開を楽しみにしていました。公開2日目に観に行くくらいには。けどこの映画に関しては、史実を扱っているからこそ描かないことにしっかりと意味が生まれてしまって、彼のテクニックや描き方への不満を感じた。
ユダヤ系として、ホロコーストをおこしているドイツへの憤り。
理論物理学者としての好奇心と戦争を終わらせたい気持ち。
原爆を作ってしまったら世界を滅ぼすことになるのに止められないこと。
こういった理由付けはちゃんと説明されるのに、日本へ投下することに対してどう進んでいったのか、というところが、ノイマンが居ないせいで悪意が薄く感じられる。なんでそこ薄める必要があったの?オッペンハイマーが経験したことじゃん。薄めたことで被爆国視点だと意味が生まれちゃうんだよ。
広島長崎のシーンもなくて、ノイマンも居ない。
結局のところ公開後のバーベンハイマーとかいうネットミームを楽しんでいる人たちを見るに、原爆の恐ろしさを伝えるにはまったく足りていないんだと思う。そもそも原爆というものへの理解度が圧倒的に足りていない上でこの映画を観ているんだろうな。オッペンハイマーがあんなに苦しんでいても、聴衆には伝わってない。映画のシーンさながらに伝わってなさすぎる。だって伝わってたらあんなネットミームにならない。
なので、映画としてノーランが描きたかったことは伝わったと思うけど、ノーランが原爆の恐ろしさを伝えたかったのかどうか、に関しては曖昧だと思った。ここが日本公開に二の足踏んだところなんじゃないかなぁ……。
原爆の父を描く以上、現実で核保有国が増え、戦火の火か絶えない以上は、原爆の恐ろしさ、あの時フォンノイマンという悪魔が居たこと、広島長崎での惨状は彼の苦悩の一部であったはずなので、描いてほしかったな。というのを私の最終的な感想とします。
しかしアカデミーでのRDJの最低なふるまいはいかにも映画内のストローズを観ているようでしたね(ほめてないです)
4/2追記:自分の文を読み返して気づいたけど、あのバスケットゴールの前で無知なアメリカ人たちが拍手をしていたシーンに感じる嫌悪感、あれこそがあのネットミームに感じる嫌悪感のそれなので、今の原爆に対する無知を皮肉って作っていたとしたら私は好きだったと思う。けど、「尊重する」と答えたというノーランでは、そこまで思考は伸びてないだろうな。