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韓国語の勉強を続けている。
奇跡的に、Duolingo換算で515日、もうすぐ1年半だ。ただ、勉強と一口に言っても、語学教室に通ったり、ネットの通信教育を受けたり、毎日テキストをやったりなんてきちんとした学習は全くやっていなくて、ひたすらDuolingoを毎日1分でもやり続ける、週末空き時間とやる気が合致したときだけ散漫的に、Duolingoで出た文法をネットで調べてノートにまとめたり、받아쓰기をやったり、ひたすら例文を書き出してみたり、そんなことしかしていない。
それでも楽しい。楽しく続けられていることに正直驚いている。
たぶんそうやって、自分の好きなタイミングで好きなように、課題を課されることなくプレッシャーがない状態でできるから続いているのであって、おそらく語学教室や通信教育を受けたら、きっと続かなくなるのは目に見えていて、習い事が何もかも続かなかったわたしにとっては、もうDuolingo様々と言ったところか。
なんかDuolingoのダイマっぽいが、やっぱり世界的にユーザー数が一番多い学習アプリだからか、”継続する”ということに特化していて、正直Duolingoで学べる韓国語はかなり偏っているだろうことは分かっているのだが、ただ”他言語に触れる時間を保つこと”が肝だろうと信じてずっとやっている。学習内容の偏りもそうだが、バグもなかなか多くて、ただメールでフィードバックを送るとすぐ直すし、UI・UXもユーザーテスト代わりかかなり頻繁にアップデートがかかるので、ネット上に投げっぱなしの無料テキストやアプデがなかなかされない語学アプリよりリアルタイム感があり、結局ここに落ち着いてしまう。英語とか数学とかついでに遊べるし…
新しく何かを生み出す作業ができなくなって、3年くらい経った。3年前の時点でコロナでオフラインのイベント開催がなくなっていたり、転職してひたすら残業するのが当たり前で平日12時間労働が通常運転になってしまったり、どこかへ旅に行くのも友人に会うのもハードルが上がって、1人でスマホ見てる時間が大幅に増えてしまった創作型オタクの末路が、年1で絵を描いたら奇跡という体たらく。
そういう状態に陥っているから余計に、自分の好き勝手に誰かから強要されるでもなく、何か新しいことを学ぶという作業がこの怠惰に浸かり切った脳細胞に刺激を与えている気がする。新鮮さを得られ、そして調べて理解するまでの苦しみと、かつ乗り越えられたときの小さな達成感を得るというサイクルが(二次創作だけど)漫画を描くことのサイクルにも少し似ていて、それが楽しいのかもしれない。なんとなくだけど、わたしは話せるようになりたいとか韓国に旅行に行きたいみたいな欲求より、韓国語を読める・書けるようになりたいがまず目的にあり、そこには韓国語で為される表現や感性を訳文ではない原文から得たい、書けるようになりたいという地味だけどだいぶ壮大な欲求があって、やっぱりこの辺にコミュニケーション下手な創作型オタクの気質が現れているな…と思ったりもする。
好きになったアイドル(いわゆる推し)が韓国人だったことが学習のきっかけといえばそうなんだけど、そもそも”推し”と呼ぶような人たちの母語を一文字も読めないでいるのは推すことにはならんだろという個人的な葛藤があり始めたことで、ある意味不純な動機でスタートしたにもかかわらず、まぁまぁポジティブに続けられていて、よほど今のわたしの思考だったりメンタルだったり生活だったりに上手くフィットしたアクティビティだったんだろうな。
ここ最近は、理解できる単語と文法のバリエーションが増えてきたので、訳文(自動翻訳)を脇に置いて原文をえっちらおっちら読み解き、訳文で答え合わせしつつ、自動訳だけでは足りない原文のニュアンスなんかを推察するのが楽しくなっている。例えばナムジュンがWeverseに残す長文メッセージは、詩的で本人の思考の複雑さが垣間見えて(見えるような気がしてきているだけ)、本当文章読むの楽しいなぁとつくづく感じている。こんな風な手紙を(原文を理解して)受け取ってきたアミは羨ましいな〜!ってちょっと思う。訳文通さないで読むからこそ見える個々人の文章の個性みたいなものも、たぶん掴めるようになるんじゃないかなー。期待していますよわたし。