今日、いつものようにXを開いたら、新宿の人気カレー店『curry 草枕』が3月31日をもって一般営業を終え、4月28日で閉店するというポストが目に飛びこんできた。
一瞬世界が止まったような気がした、と言っても大袈裟じゃない。店というものは開店した以上、いつか閉店する。生まれた人がいつか必ず死ぬように。そういうものだとよくわかっているつもりだったけれど、やはり目を疑ってしまった。それから、「もう草枕の茄子チキンカレーを食べることはできないんだ」という後悔を含んだ悲しみが喉元にこみあげてきた。
自分が10年以上定期的に通い続けたカレー店は『curry 草枕』だけだ。初めて行ったのは、2010年の春(当時マメにつけていたブログを遡ってみた)。その時期、僕は母親の営むカフェバーでフルタイムで働かせてもらっていた。そこでチキンカレーを出していたこともあって、週2回、「カレー研究」という名目で方々のカレーを食べ歩いていた。「これは凄い」と思えるカレー店はたくさんあった。でも味や店の佇まいも含めて「ここは日常的にずっと通い続けたいな」というようなカレー店にはなかなか巡り合えなかった。
そんな頃、店で一緒に働いていたYさん(当時、武蔵野美術大学の学生さんだった)が、新宿にめちゃくちゃ美味しいカレー屋さんを見つけたんだけど、と教えてくれた(彼女も食べものへの情熱と探求心が人一番強い人だった)。
「そのカレー屋さん、草枕って言うんだけど…」
「草枕? 夏目漱石?」
14年前、そんな忘れ難い名前のカレー店『curry 草枕』に初めて行った日のことをよく憶えている。草枕は、新宿東口から歩いて5分くらいの雑居ビル2階にあった。ランチの時間を外して行ったのだけど、お客さんは階段下まで溢れており、ビル階段に並んで待つ必要があった。今でこそ広い店内の草枕だが、当時はカウンターと窓際に数席あるだけのこじんまりとしたお店だったのだ。
初めて注文したのは「茄子チキンカレー」、辛さ3番。
草枕のカレーは驚くほどさらっとして、カルダモンの風味がやけに立った(と感じた)、北海道のスープカレーを思わせるようなカレーだった。最初に食べた時の印象は「なんだかカレーらしくないな…」というものだった。それは当時自分が好んで食べていたカレーと比べると、あまりにさらさらしていて、あまりに爽やかで、あまりに透明感があった。スパイスの妙味はあるものの、それほど主張せず、口の中にしつこく残らず、身体にすうっと吸収されていくような心地がした。最初は、その独特の軽やかさに肩透かしというか、釈然としない印象を持ったように思う。
カレーとの出会いは恋に似ている。草枕のカレーの不思議なほど澄んだ味わいは、翌日になっても、翌々日になっても不思議と残っていた。口の中や舌にと言うよりも、粒子となって五臓六腑に染みこんでいるという感じだった。
数日後、僕はYさんと知人とともに、再び草枕を訪れた(当時はおいしいカレーがあるという理由だけで、気軽に知人と連れ立って食べに行けるような幸福な状況・時代だったのだ)。その日は茄子カレーにプチトマトをトッピングし、ライス少なめ・ルー多めで注文したように思う。
2度目に食べた時、僕はそのカレーが自分にとって唯一無二の相性であることをはっきり得心できた。最初にうまく話の合わなかった人と、二度めに会ってじっくり話して、相手の素直でユニークな人柄が伝わってきたように。
その後、休日に新宿に行くたびに草枕を訪れるようになった。それまでの自分にとってはベルクで飲むことと映画を観ることが新宿に赴く「2大理由」だったから、3つ目の理由・名目ができたわけである。
なるべくお酒を飲む前に草枕のカレーを食しておきたいから、草枕に足を運ぶのは「新宿に降りたら一目散に」というケースが多かった。それからバルト9や新宿武蔵野館で映画を観たり、紀伊国屋書店で本を物色して、最後にベルクに行って酒を飲んで中央線に乗って帰る、というのが自分にとって理想の休日となった。あれよあれよという間に人気店となった草枕は、連日ひしめくお客さんと回転を考慮してのことだろう、最初の雑居ビルから少し離れた場所に移転した。新しくなった草枕はカレーが大好きな友だちの広い部屋みたいな感じで、妙に落ち着けた。そして2012年、僕もクラシック音楽が流れる、カレーを出す喫茶店をささやかに営むこととなった。
自分の店を開いてからも、東口から歩いて10分以上かかるようになった草枕に変わらず通い続けた。行く時はいつも1人だった。草枕のカレーは1人きりで静かな気持ちで食するのに相応しいカレーだった。トッピングは多くの種類があったが、たいてい「茄子チキン+プチトマト、辛さ3番」を注文した。
なるべく長居しないようにしていたけれど、あまり時間がなくてベルクで飲めなさそうな時は、サッポロクラシックラガーも注文した。そして会計時に黄緑色のラッシー券(次回注文時無料になる)とパイン飴をもらい、そうだ、次はラッシーを頼むのを忘れないようにしようと思うのだった。
それから引っ越しをして、8年営んだ喫茶店をコロナ渦中に閉店し、なかなか新宿まで出られなくなってしまった(最後に草枕に行ったのは2020年の春)。でも、新宿には草枕があるんだ、だからきっとまた「茄子チキンカレー」を食べることができる……きつい時期はそう自分を鼓舞した。
そうこうしているあいだに色々とあって、新宿には行けないまま3年が過ぎた。現在は2024年。そうしてcurry草枕は来月——4月28日をもって閉店することとなった。
ショックで思わずつらつらと書いてしまった。年に10回程度しか行かなかった僕などよりも、ずっと草枕のカレーが日常的だった常連さんが何百人も(あるいはもっと)いるはずで、そうした人たちのことを考えると胸が痛む。ノドが疼く。ずっと食べ慣れてきた大好きなカレーが急に食べられなくなることがどれほど辛いことか。そして実際、僕は今、辛い気持ちでいっぱいである。「からい」ではなく、「つらい」である。
この世にはおいしいカレーや、感動するようなカレーはたくさんある。でも草枕のカレーに替わるカレーは、僕の人生にはもう二度と現れないだろう。「新宿に行けば草枕がある」と思うだけで、もうちょっと人生頑張ってみようと思えるような、そんなお店であり、そんなカレーだった。人気店なのに、奢ったところも気取ったところもまるでなく、ありふれた毎日を爽やかでスパイシーな味わいで彩ってくれるようなカレーの魔法が『curry 草枕』には、あのカレーには、たっぷりと含まれていた。その味わいはきっとずっと消えない。
草枕店主とスタッフ様方に心からの感謝を。ご健康とこれからのご多幸を心よりお祈りしております。