Twitter → X でどうなったか
Twitter から X になり、鳥のロゴや「ツイート、リツイート」といった用語が変更された(ブランドアセット一新)のに加え、
画像や動画ありで、多くの人にブックマーク(皆使ってるのかな)された数が多いポストの価値が上がる(おすすめに出やすくなる)よう、アルゴリズムが改変された
自分のポストに対して返信があったとき、それに返信すること、またその返信自体の数が多いことが、特に重要視されるようになった
いわゆるインプレゾンビ誕生のきっかけ。能登地震で日本語圏にもインプレゾンビが増えたのはこれが原因
YouTubeのようなクリエイター広告収益プログラムが導入され、上記のようなポストが多くの人に見られる(インプレッションを増やす)ことが、X で価値を持つようになった
APIが有料になったことで、上記のようなポストを機械的に大量生産できなく(≒スパム行為がしづらく)なった
(Twitter → X 以前からも企業用アカウントとかで差異はあったけど)有料プランに入っていないとすべての機能が使えなくなった
といった機能面での変化があり、かつての古き良き「ソーシャル・ネットワーク・サービス(以下SNS)」は「投稿内容のエンゲージメントが高いほど広告収入を得やすくなる」サービスにガラッと変わった。
X になってから「おすすめ」タブに衆目を集めやすいポストが列挙されるようになったが、これもアルゴリズムの改変による影響である。
コミュニティとしての X
イーロン・マスクは「X 内に限定的機能の広告エコシステムを整備する」ことで X を収益化させることに成功(答え合わせはこれからなんだけど)したが、そのぶん本来の「SNS」的な機能は、まあまあ失われてしまったように思う。
そもそもソーシャル・ネットワークでは「発言が注目されたら金をもらえる」なんてことは起こらない。
SNSとは、登録された利用者同士が交流できるWebサイトの会員制サービス
X に限らず、収益化できていない会員制サービスは、コスト的な問題があると運用継続できない。収益化によって「X を生き長らえさせること」はできたものの、そのぶん SNS としての Twitter は縮小し、たんなる「いろんな情報が降ってきて、それを便利に見れるいちサイト」になってしまったように思う。
お金の有無や、立場の高低(ただしある程度の線引が生じるのはやむを得ない)に関係なく、市井の人間がソーシャルにコミュニケーションを取ることができる「現実社会」に対し、SNS の機能はどうしても限定的にならざるをえない。
そこに収益要素が絡んでくると、もはや「現実社会における、公平性の高いコミュニケーション補助」としての機能は、全面的には期待しづらい。おそらくイーロンも悩んだのではないかと思うが、結局収益側に舵を切らざるをえなかったのも、今となっては納得感がある。
もっとも、それで「はい Twitter は残りました、X でやっていきます」と言われても「違うじゃん」となるのはご愛嬌。
真にソーシャル・ネットワーキングであること
限定的な機能しかない環境だと、どうやってもそれを悪用する人は出てくる。ただ、機能を限定しなければしないで、人のモラルに頼らざるをえず、そしてそれは SNS が現実社会の補助ツールであることを踏まえると、あまり信頼できない(性悪説ではなく、人のやることは不確実であるという視点の話)。
ゴシップも誹謗中傷もヘイトスピーチも、それ自体は社会悪でしかないが、現実社会を考える上で避けて通れないし、それは SNS においても例外ではない。現実社会だと逮捕・保護などで、SNS ではバンやミュート、ブロックなどで対処される。
現実社会で起こりうることは、SNS でも当たり前に起こる。現時点で SNS ではなんとなく許されているということがあるとしても、それは機能とモラルの問題でしかなく、いずれ現実社会と同じように対処される。逆に、そうなってはじめて、真にソーシャル・ネットワークであると言える、といった側面もある。
ただ、こういった部分と収益性の相性は最悪で、特に「金を稼げる」というところが強化されてしまうと、SNS の機能が現実社会に沿わなくなり、補助ツールとしての役割を持つとは言い難くなる。少なくとも X は現状そちらの方向に舵を切りつつあると見てよい。
本当の意味でソーシャル・ネットワークであるなら、現実社会と同様、税金と還元のようなスキームでもって「お金を払って参加し、還元も得る。反モラル行為は罰則で対処」といったような、現実社会と近いかたちになるんではないかと思う。運営についても、企業がやるのか、自治体がやるのか、国がやるのか、あるいは中央集権ではない何かがやるのか、といった議論は引き続き必要と思う。
SNS の使い分け
現実社会において、市井の人間一人ひとりが 1 つのコミュニティにしか参加していないかというと、そうではなく、会社、地域、趣味など、多様なコミュニティに参加している。
SNS が正しくソーシャル・ネットワークであるなら、SNS はいくつ使ってもよいし、そこに参加する・しないも自由であるし、参加していないからといって虐げられることもない、あってもならない。
ただ、X で言うところの企業アカウントのように「一方的に情報を発信する機能がメイン」の使い方だと「ソーシャル」ではないため、ある種の使いづらさは生じる。SNS を広告活動に使うなら、リソースやコストの都合はあるかもしれないが、ソーシャル・ネットワーキングであることを重視すべきと考える(それが嫌なら TVCF なりネット広告出稿なりで留めればよい)。
SNS において、広告を積極的に見たい人がほぼいないのに対し、広告出稿者は死んでも広告を大勢に見せたいというミスマッチがそもそもあり、じゃあそもそも、それ(広告)はソーシャル・ネットワーキングにおいて必要な機能なのかというと、そうではない。だから、ソーシャルなふりをして商品を買わせようとするステルス的な手法が忌避される、という話につながる。
ただ、X がそうであるように、今のところ SNS を生き長らえさせられ、すぐに使える手段は広告ぐらいしかないため、Bluesky やその他の SNS がどういった手法でこれに変わるものを運用するのかにはかなり興味がある。そのへんの采配が「ソーシャル・ネットワーク」的であればあるほど、SNS としての健全性は高くなると見てよいと思う。
今後 SNS はどうなるか?
SNS はあくまでも「現実社会におけるソーシャル・ネットワーキングを補助するサービス」であるし、その定義は現実社会が大きく変革しないかぎり、今後も変わらないだろう。Metaverse にしたって、結局現実的なコミュニケーションがついて回る。
ただ、SNS がより現実社会に寄るのであれば、SNS に関する法整備などが、今以上に加速化すると思う。その中には好ましいものもあれば、好ましくないものもあるかもしれない。好ましくないものについては、市井の人間が「ソーシャル・ネットワーク」を通して議論をしていかなくてはいけないのだと思うし、結果的には、それが健全なコミュニティの形成につながるのではないかと思う。