カリスマと大衆、ノブレス・オブリージュなき社会

luca
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産業革命は、「大衆」を生み出した。

これは、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの言葉である。彼は、社会には資質を持つ少数者と、資質を持たない大衆から構成されているとした。人々はかつて、共同体に属し、利害関係の外に自らの足場となる場所を持っていた。しかし、産業革命によって、各個人が大企業という利益組織に属し、それぞれが利害関係によってのみ繋がるようになった結果、各個人が自らの利益のみを追求し、欲望のままに行動するようになったと述べている。大衆は、他者と同質であることを肯定的に捉え、優れたものを嫌い、思いのままに行動する。また、自らの現在の生活を支えている文明の恩恵や、自然の恵みを忘却し、当然のものだと捉えている。結果として、人々は共同体に帰属していた時に抱いていた、「自らが社会にどのように貢献できるのか」という能動的な思考から、「社会は自らに何をしてくれるのか」という受動的な思考へと変化した。オルテガはこれを、「甘えた子供の心理」と表現し、警鐘を鳴らした。

現代における大衆の問題点 - 大企業亡き時代の到来

現代における大衆、日本の大企業で働く人々の問題点は、時として彼らの生きがいが、属する集団の社会的名誉によって生み出されている傾向にあることである。米国の文化人類学者、ルース・ベネディクトは、その著書『菊と刀』のなかで、日本人は社会的に名誉であると考えられていること、他者と同じことを行うことを重要視し、そうでないことを行い、マジョリティの道から外れることを「恥」だと考えていると指摘した。現代の日本において、このような思考が私たちの社会を規律の守られた、快適なものにしていることは、例えば日本の街中の様子と米国の街中の様子を比較するとよくわかる。米国のように一人一人が意志に従い、好き勝手行う街は時に(少なくとも日本人にとっては)快適なものではないだろう。私たちは、例えば街中でゴミをポイ捨てしたり、地下鉄の駅で立ちションしたり、公衆トイレを綺麗に使わないことは「恥」であると考えるから、街中が整然として異臭もなく美しい。

しかしながら、文化と経済はまた異なる問題である。かつて、経営の神様・ピーター・ドラッガーに「会社経営の手本とすべき」と言わしめた、巨大企業の終身雇用制も、今や堕落の根源と化している。大学生の期間をモラトリアムだのなんだのと言って研鑽を怠り、社会人になってもかつての「サラリーマン」のように長時間労働するもなく、専門性を身に付けるもなく、ただカンバンを引っ提げ、労働者の権利を主張する存在と化しているように見える。かつて、人々は安い賃金であっても、明るい未来のためにと切磋琢磨し、強い意志を持って努力していた。だからこそ、終身雇用制は個人が能力を出し惜しみせず、安心して暮らせるような仕組みであった。しかしながら、大衆化した現代において、しかも各企業が十分大きくなった現代において、雇用だけ終身保障されているという仕組みは、ただ大企業の労働者に慢心を生み出しているのではないかと思える。無論、国内企業の低い生産性の原因には労働者の意識低下だけでなく、経営者の意思決定における合理性の欠如などの理由も否定できないが。

私が個人的に懸念しているのは、やはりAIの登場である。2年ほど前に、DX(デジタル・トランスフォーメーションという、要はコンピュータで仕事を効率化しようみたいなムーブメントである)のコンサルティングの企業でアルバイトをしていた時に、巨大企業の経営層の方からお話を聞く機会があったのだが、近年のそうした自動化ソフトウェアを導入する最大の障壁が、いわゆるそれらを導入することによって削減できる労働リソースをどこにやるのか考える必要があるという問題である。すなわち、終身雇用制で容易に首を切れないから、生産性を高めるプロダクトを導入できないというのである。しかも驚くべきことにこうした議論が、GPTがまだ不良チャットボットだった2年前に既に行われているのである。ChatGPTのようないわゆる「基盤モデル」は、世の中のあらゆるタスクを自動化出来ると言われている。こうした時代において、大企業がこれまでの雇用を保障できるとは思えない。大企業という居場所を失った大衆は、どうやってアイデンティティを保ち、生きがいを見つけられるのだろうか。

私はこれに対し、望ましい未来と避けるべき未来との2つを考えている。

望ましい事態は、人々が大衆を脱却できる社会になること。すなわち、各個人が自発的に解決する課題を発見し、それに応じて対価が支払われるような社会の実現である。これには幾らかの障壁、具体的には、「挑戦して失敗することが恥である」という日本人固有の意識や、それに伴う保障制度、米国や中国と比較し大学で個人が専門性を十分に身につけられていないことなどが存在している。しかしながら私としては、それらの一つ一つに対し、技術起業家として解決策を提示し、世の中をよりよくしていきたいものである。

避けるべき事態は、ファシズム的な思想の発生である。すなわち、独裁者が現れ、アイデンティティを失った個人の弱みに漬け込み、的外れな外部に対し敵を作り、社会全体が世界から孤立することである。こうした独裁がまともな結果をもたらさないことは歴史が示しているが、大衆が自ら心の拠り所を見つけられなければ、オルテガやフロムがかつて指摘したように、ファシズムに向かう可能性も指摘できない。

現代の少数者の問題点 - ノブレス・オブリージュなき社会

私は現代の少数者は2分されていると考えている。産業革命以降、ずっと続いている資本家や経営者のような「伝統的な少数者」と、インフルエンサーやYouTuberのような、「新興の少数者」である。

伝統的な少数者、資本家や経営者は、かつての労働者と彼らとの対立、すなわち労働組合結成による、労働者の権利の保障を求める運動をはじめとした、先代の対立や均衡点を見つける努力によって、彼らの権利は制限され、社会的な役割が明確化された。現代においても、経営者は慈善活動を行なうなど、社会のアトラスとしての役割を全うとしている。ビル&メリンダ・ゲイツ財団や、孫正義育英財団のような財団が、社会奉仕や次世代の育成に取り組んでいることが例に挙げられる。彼らの成功は、多数の労働者や顧客なしには成し得なかったし、彼らもまたそれを自覚し、労働者や一般市民に貢献しようという姿勢を欠かさない。19世紀には、こうした社会的地位を持ち、影響力を持つものが、社会的な模範になるべきであるという考え方を、ノブレス・オブリージュ(貴族に義務を負わせること)と呼んだ。

私は新興の少数者を、個人主義的なプロダクトが生み出した強力な個人と定義する。インフルエンサーやYouTuberを筆頭とする彼らは、経済的に成功し、しかもそのほとんどは一個人の努力によって実現しており(これはすなわち、資本家や経営者と比較し、当人の経済的成功の実現において当人以外の努力が占める割合が相対的に少ないということである)、かつ社会において知名度や発言力が強い。これは、個人の努力がより明確に経済的に反映されているという点では望ましいのだが、彼らが社会において適切な義務を果たしているとは思えない。無論、慈善活動を行なっているインフルエンサーがいることは否定しない。だが、彼らの日常的な行動が社会規範になっているとしたら、それは表面的なものを人々が信仰する原因になりかねない。すなわち、人々が、注目されるような行動を行い、それによって個人的・経済的な成功をするような、エゴイズムを美徳であると考え、例えば学問を追求することの意義や、他者を巻き込み雇用を生み出すような他者思考の考えに興味を持たなくなったとすれば、その時社会は、ただ自らの欲望を満たそうとする個人で満ち溢れ、それぞれが利益ばかり追求する、大衆の混沌が生み出されるだろう。

前者と後者の決定的な違いは、その成功に他者を必要とするか否かであり、他者に対し何か善行をするインセンティブがあるのか否かである。経営者や資本家は周囲のものに細心の注意を払い、成果を上げる支えを行なって初めて成功できるし、それを美徳とするが、後者は他者を必要としない。自らの能力を過信し、己の自己顕示欲を満たすために影響力を振りかざす。

なぜソフトウェアエンジニアであり、人工知能の研究者であり、起業家である私が社会学を学ぶのか

私はコンピューターと共に育ってきた。5歳の頃に父親が私にWindows XPのLavieを与えて以来、21歳になった現在まで私の手元からコンピュータが離れていたことはない。以降、ネットサーフィンやいわゆる「ネトゲ(死語になりつつあるが、かつてインターネットで他のプレイヤーと遊べるネットワークゲームを「ネトゲ」と呼んでいた)」から始まり、3Dモデリング、画像・動画編集を経て、最近はもっぱらプログラミングと、大学での人工知能の研究に励んでいる。

そんなコンピューターオタクの私が最近気にしてやまないのが、いわゆる「AIが社会に与える影響」である。かつて、コンピューターは、個人に可能性を与える道具として浸透した。どんなに社会的地位に恵まれていなくても、コンピューター用のソフトウェアを書くことで大金を得て、「成功者」になることが出来た。どんなに僻地に住んでいようとも、インターネットを通じて、あらゆる分野の学問を修めることが出来るようになった。しかしながら、AI、とりわけChatGPTをはじめとしたLLM(大規模言語モデル)という分野は、むしろそうした個人の可能性を奪いかねないと考えている。

LLMが決定的に他の技術と異なっているのは、自ら考えて行動できる点である。ユーザーが目標を入力するだけで自動的に何をすべきか考え、行動してくれるAutoGPTをはじめ、基盤モデルを活用したロボットの自動操作など、世の中のあらゆるものが自律的に動く方向に進化しようとしている。こうした時代において、人々は何に生きがいを感じ、何をやるのか考えた上で、それらに対しエンジニア・研究者として技術的な視点から解決策を提案したいし、起業家としてそれらを社会実装したいと考えている。私が望む未来の社会とは、コンピューターが人類の敵となる社会ではなく、個人の能力を拡張し、人生の可能性を広げる道具となるような社会なのである。

@luca
空き時間と体験を結びつけるアプリを開発しています。大学生。