モラトリアム人間の時代

luca
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小此木の『モラトリアム人間の時代』を久しぶりに読んだ。4年前にこれを読んだ時には何も感じなかったのだが、今これを読んでみると、自らのモラトリアム性に気付かされた。私が初めてこれを読んだ時、自分がモラトリアム人間である自覚も無かったし、私自身が将来何になるのか思い悩むとは考えていなかった。ただただ私はデータサイエンスを学んで、卒業後は外資系コンサルティング企業でデータサイエンティストとして生きるのだろうと漠然と考えていた。

私は色々知りすぎたのかもしれないし、知ったように勘違いしているのかもしれない。私は大学1年時にDXコンサルティングを行うベンチャーに入りエンジニアとして働き、大学2年時にはプログラミングを行いアプリを作り始め、大学3年時にはブロックチェーンのサービスを出し、大学4年時にはインドネシアでAIビジネスコンサルタントアプリを作った。一度も継続的な収益を得られたことはないし、一度も資金調達して事業を加速させたことはない。私は色々な世界を見て行動を控える自らの慎重さを素晴らしいと評価していたが、今思えば何者になる覚悟も出来ていないモラトリアム人間だったのかもしれない。「何にでもなれる」という勘違いをしながら、一歩も歩き出さずに自らの可能性に足を縛られていただけであった。私はただ、原点でキョロキョロしながら思いを馳せ、一歩も歩き出さない愚者に過ぎなかった。

さて、小此木は現代人のこうした現代人の心理の原因を、過度な学歴社会が生み出したものだとした。小此木によると、大学入学までの熾烈な競争と、その後の入学後の開放性とのギャップが、個人のアイデンティティの拡散をもたらすのだという。例えば、なんとなく「東大に行く」と目標を立てて十数年努力してきた人間が、目標を達成してふと自分は何になるのだろうと思い悩み、学業へのモチベーションを全く失うようなものである。確かに、私自身、小さい頃から理由もなく競争社会に放り込まれ、その終点とも言える大学卒業の区切りで、自らの過去の空虚さ、自らが常に仮初の姿に甘んじていたことに気付かされた。皮肉にも、こうした競争社会がもたらすモラトリアム性の問題点に気付かせてくるような人間は国内の学歴競争の頂点、東京大学の友人が多いのだが。

起業家はある種、常にモラトリアム人間的な心理が求められる。起業家の発想が枯渇し、現状維持の思想を抱くようになった時、企業は成長を止めるだろう。米国の精神科医・リフトンは常時モラトリアム人間であり、そのアイデンティティを常に変化させつつ、常に自分を一時的・暫定的な存在として捉え、しかしながらその時々で自己の能力を十分に発揮する人間を、「プロテウス的人間」と名付けた。常に現在の自分を最終的な自分とは限定せず、しかしながらその時々の状態において最大限自己実現するのである。私もこうして、自らの意思決定に対して最大限自己実現できる存在になりたい、と強く思ったのであった。

@luca
空き時間と体験を結びつけるアプリを開発しています。大学生。