僕にとっての「翻訳できないわたしの言葉」とは?

品場諸友
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東京都現代美術館で行われている『翻訳できないわたしの言葉』展に行ってきた。アーティストたちが表現する「言葉」のアートを浴びながら、僕は「僕にとって『翻訳できないわたしの言葉』は何なのか」を考えていた。

僕は日本語ネイティブだ。父も母も日本語話者で、日常的に日本語が溢れる家庭で育った。だから頭の中の考え事のほとんどが日本語で行われている。その一方で、僕は語学に魅了され、運良く英語とフランス語をしっかり勉強する機会を得た。日本語には遠く及ばないが、突然知らない土地に着の身着のまま置いていかれたとしても、英語かフランス語が通じれば、帰ってこられる自信がある。なので、僕はトリリンガルを自称している。

……とカッコよく語ったところで、日本で生活をしている限り、ほとんどは日本語で事足りてしまう。英語もフランス語も滅多に口から出てこない。だが、僕が言いたいことの中には「日本語にできない」=「英語/フランス語のまま使いたい」フレーズがある。これらが僕にとっての「翻訳できないわたしの言葉」だと、一旦定義してみよう。これらに共通点はあるのだろうか。翻訳できないフレーズをメモに書き出して、丸一日眺めて出たのは、これらのフレーズは僕にとって「大事に使いたい言葉」であるという結論だ。

例えば英語だと、“It’s not for me.”

誰かの作品や思想が、自分と相容れなかったときに、こっそり呟くようにしている言葉だ。この言葉のおかげで僕は、自分と違う考えを持つ他者や思い通りにいかない状況と、僕はうまく距離をとってきた。日本語だと、「それは私のため(のもの)じゃない」になるのだろうか。日本語にすると、英語に漂う「どこ吹く風」といったニュアンスが消え失せ、甲冑を着ているかのような重々しさを感じてしまう。

フランス語だと « Bonne journée. »

とてもベタなフランス語だから聞いたことがある方も多いと思うが、「良い一日を」という意味である。フランスで買い物をすると、去り際に必ず« Bonne journée »と言う。この習慣に一時期浸ってしまったせいで、何も言わずにレジを去ることに、何だかムズムズしてしまうようになった。でも急に「良い一日を」なんて日本語で言われたら、「どこの紳士???」ってならん??? というわけで、日本でレジを済ませた後は、「どーもー」とか「ごちそうさまでしたー」とか言いながら店を出てくる。ちなみに、「良い一日を」は友人に対しては頻繁に使っている。ちょっと奇妙かもしれないけれども、急にフランス語で« Bonne journée »って言われるよりは自然だろうから、耐えてほしい。


まだ展覧会の内容を咀嚼しきれていないので、以上がひとまずの感想。また何か思いついたら、ちょこちょこ書くかもしれないけど、今は言葉が上手く紡げない。

少し話は逸れるが、僕の好きな『宝石商リチャードの謎鑑定』シリーズに、こんなセリフがある。久しぶりに日本に帰国した正義が、自分の母語である日本語が不自由になってしまったことに気付き困惑し、リチャードに助けを求めた場面でのものだ。

日本語は、あなたにとっては広範すぎる。自分の母語で喋るには、あまりにも抱えているものが多すぎる。そういう理由で言葉が不自由になることも、ままあることです。

『宝石商リチャードの謎鑑定 邂逅の珊瑚』辻村七子

この気持ち、とてもよく分かる。日本語で、沢山のカードを持っているからこそ、どの手札が最適か悩み、ぎこちなくなってしまうのだ。一方、学習途上の外国語は、手札が圧倒的に少ないので、簡単に次の一手を切れてしまう。母語である日本語におけるこの傾向は、ある意味「自己検閲」という名の翻訳作業だと僕は考えている。「この書類を出して」ほしいだけなのに、「お忙しいところ大変恐れ入りますが、ご提出のほど何卒よろしくお願いいたします」とゴテゴテに思ってもいない「オシャレ」を施してしまう。もしかしたらこの文章も、英語かフランス語で書いた方が、僕の生身の感情に近くなるのかも知れない。そんなことを思う。言葉って本当に厄介だ。だが愛おしい。

なお『翻訳できないわたしの言葉』展は7/7までなので、気になる方はぜひ足を運んでみてほしい。色んなコンセプトの展示があるけど、多様だからこそ、何かしら刺さるものがあると思う。

それでは、みなさま、良い一日を。


追記 (Xに書いたこの長文の裏話)

展示を見ながら「生半可なことは書けないな」って感じた。展示の一つ一つに、アーティストさん個人のアイデンティティや信念が詰まっていて、当事者でない僕が簡単に何かを言って良いもんじゃないと思った。だから、今回みたいな「僕にとっての〜」という書き方になった。とあるフォロワーさんと行ったんですが、見終わって感想を言うのに選ぶ単語に注意しながら、綱渡りをするように言葉を発していた。このぎこちなさ、言葉選びの選択肢の多い母語(=日本語)だからなんだと僕は考えている。これがもし英語だったらフランス語だったら、自分の中にある少ない単語を使って、もっとストレートな物言いをしていたと思う。「この言語は僕にとって、第二言語(なので多少不自由でもごめんね」って感じで。でもそれって、甘えだよなって思ってもしまう。

@m478
北極から流れ着く小瓶