テーマ:芸術 目標文字数:1280文字 1345文字で達成
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本文
画法として遠近法があるなら、逆遠近法もあるということを知った。
遠近法はご存じの通り、遠くにあるものほど小さく薄く見えるように描く技法である。一方の逆遠近法はその謳っている通り、遠くにあるものを大きくはっきり描く技法だ。
しかし、逆遠近法的に世界を見たことがある人はいるのだろうか?
誰も体験したことのないような、ある種不自然な技法で絵を描くことは、どのような意味を持つのだろうか。
抽象絵画なんかは、画家の概念とか思案とかが表現されているとみなせるから、何を表現しているかわからない、具体物でない不明なマークであろうと何らかの意味を鑑賞者(ビホルダー)が受け取ることができる。
では逆遠近法は、画家の意図を伝える表現技法なのか?
なんて考えるほど、それほどまでに遠近法が当たり前のものとして私の観念にこびりついているのか?
「見える通りに描く」というのがあまりにもエッセンシャルなものとして、
遠近法の歴史はいつから始まったかなんかは知らなかった(ルネサンス期らしい)うえ、そのカウンターとして逆遠近法が開発されたのだろうと考えていたけれど、逆遠近法自体はルネサンス期以前から頻繁に用いられていたらしい。
ということは、「近くにある物体の奥行きが拡散していく」体験が、ある種画家たちの共通認識としてあったというのか?
ものの見方に対する観察や研究は、感覚の鈍い私にとってはちんぷんかんぷんだ。「見える通りに描く」の「見える通り」、そのメタ認知が研ぎ澄まされていく過程に理解どころか想像が及ばない。デッサンとか続ければ身につくものなのか?
生まれてこの方、一生ものを見続けているはずなのに、「ではどう見えているか?」と問われたら正しく答えられない。
こんなんじゃ生きてないのと同じじゃないか? 流石に言い過ぎではあると感じる。
しかし、「犬を描いてください」と指示を受けて描いたものが犬として認識できなかった経験は、自分の見えている世界に罅が入るのにも似たようなものではないか。
見えている物と頭の中にあるものと手指の運動によって出力されるものは全く乖離している。
この乖離が無くなったら、生きていることになる?
生きている経験をするということは、生きている状態をメタから認知することなのか?
メタ認知の助けになるイメージを育む美術をはじめとする芸術、それはすなわち生きていることを助けることなのか?
一旦いまここに生きている状態とは別のところに自分を置いて、体験さえも客観視するその営みが人生を豊かにしてくれる。
生きている状態? 「人はパンのみに生くるにあらず」という言葉は知っているが、「人はパンなしには生きられない」というのもまた一つの真理だ。芸術はパンではないから、生きていることを支えることはできない。その点で言えば、絵が描けないから「こんなんじゃ生きてない」とは全くならないはずだ。むしろ稼ぎが無い方がまずい。人と関わらない方がまずい。社会的な生活を行うことができていない方がもっとずっとまずい。
逆遠近法は新奇な概念・技法に感じられたがその実ルネサンス期以前から存在し、人々のものの見方、美的感覚に確かな影響を与えていたようだ。その存在を知らず、まるで遠近法のカウンターのようだと直感的に答えた自分を恥じるべきだ。
書き終えてから
文章が散らばった。統合的能力が無い。コヒージョンが足りない。
時間もかかっている。論旨がはっきりしていない。とびとび。