テーマ:言語 目標文字数:1280文字 1316文字で達成
所要時間:68'53"
本文
チャットが主流になってから、人々の書き言葉がめちゃくちゃになっていないか?
喋るように言葉をお手持ちのデバイスで打つ、そこには文字(キャラクタ)に対する意識が無い。音が合っていれば意味が通じる、言語話者に具有の誤り訂正能力に頼りきった敬意の欠けた表現。そんなのばっかり目につくようになった。
日々が国語のテストだ、と主張するつもりはない。しかし、どうしてその間違いを許しているのか理解に苦しむことがある。
繋ぎ言葉のように使われる「意外と」が、「以外と」と間違えられているのをよく見かけるようになった。自分の意見を婉曲的に伝えようというか、読者にいきなり拒絶感を与えないためのクッションとして(意外と?)この言葉は使用頻度が高いように思える。書いている当人にとっては気遣いなのかもしれないけど、間違えるくらいなら書かないほうが良いのでは? と考えてしまう。そんな気遣いより誤字を減らす方に集中力を注ぐべきだ。不安なら調べるといい。
「ふいんき」という音が「雰囲気」の読みに充てられるのはもう認めるしかないのか。私がよく聴くアーティストも、前のアルバムで収録されている曲では「フンイキ」と歌っていたのに、その次のアルバムでは「ふいんき」と(そのように聞こえるように)歌ってしまっているではないか。「ふんいき」の本来持つ「ふん」のグラニュラ―でマイニュートなアトモスフィアが、「ふいん」とひと吹きで飛ばされてしまっている。このような狼藉が許されてなるものかと心のどこかで感じつつも、そういう時代だからねと諦めつつある。
それでも、ちょっと許容できないなという例も挙げておく。「氷(こおり)」を「こうり」と書いていたり、「凍る」を「氷る」と書いているのを見た時は正気度が下がった。小学校低学年で身につけるようなところでは? 誤字のレベルを超えていないか? あと、「~しずらい」も。辛くなったことが無さそうで、とってもうらやましい!
上記のような言葉の正義は我にありみたいな、権威主義的な主張をすると、ちゃんと反論が付く。曰く、「新(あたら)しい」も、もとは「新たに」と同じで「新(あらた)しい」と言われていた――ではお前は今も「あらたしい」と言っているか? とか、「だらしない」も元を正せば云々とか、歴史的仮名遣いって知ってる? とか。今正しいと思い込んでいる言葉だって、一昔前は間違いだったんだぞ、お前にとっての正しさとは軟弱なもにょもにょよ。
言葉は変化する。言葉は変化に寛容だ。誤字だって書き間違いだって音素のスワップだって組み込んで破綻なく移ろっていく。上で挙げたような誤りだって、訂正して理解しなおすことができる。伝われば大丈夫だ。Mistakes are OKの精神だ。
ではなぜ誤字や誤りを悪しきものだと感じてしまうのか。それらを糾弾して何になるというのだ。
なぜ正しいとされる言葉を使わなければいけないのかと問われた時、その者を満足させられる答えをお前は提供できるのか。そうでないなら黙ってろよ。
言葉に対する正しさを考えるにあたって、そもそも正しさなんて存在しないのではないかというところに行き着いたら、これから私はどんな言葉を使えばいい?
書き終えてから
愚痴になってしまった。言葉の乱れ憎しで、やっつけるように書いてしまった。本当はもうちょっと書きたかった。「【形容詞】くない?」とか。
言葉の正しい使い方については、ずっと暗雲立ち込めている心地だ。