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m_aino
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公開:2025/9/15

#導入

 榎木津が事務所に姿を見せなくなって、一月になる。

 榎木津の私室を覗いて見たところここ一年くらいよく使っている旅行鞄が無いようだったので、初めは実家にでも帰っているのかと思っていた。不在が数日続いた頃、寅吉が本家の方で働いている親父さんへ電話して確認したのだが、あちらに戻っている訳でもないらしい。

「丁度私は買い出しに出ていてね、何所に行くのか聞けなかったのが惜しかったなあ。その日、起きてからの間には、遠出するような話はしてらっしゃらなかったんだけども」

 寅吉は榎木津の出て行った日を思い返して、そう言った。あんな風に気ままな人だから、行先を告げずに空けることなんてしょっちゅうあるのかと思えば、全くなんの宣言もなく事務所を空けるのは割に珍しくて、最初の行先は大抵寅吉が聞いている。最も、目的地に行く前に気分が変わって、別のところに行っているとか、聞いていた場所にはほんの少ししか立ち寄っていなくって、その後の行方はわからないとかで、益田が探しに行かされるときには大した手がかりにならないことが多いのだが。それにしたって、あるのとないのではあった方が幾らか心強い。

 一月経っても、寅吉は慣れているのか全く心配している風はない。益田だって成人の男が少し姿を見せないというだけで大騒ぎすることもないとは思うし、榎木津に限ってその身を案じる必要もないことは承知している。ただ、少し気になることもあって、請け負っていた依頼(浮気調査、迷い犬探し、家出人探し、迷い猫探し)の調査を進めつつ、合間合間に事務所周りで聞き込みをしてみた。しかし、目を惹く容姿をしている人であるのに姿を視たという者は見つからず、事務所を出てからの足取りもまるで掴めないまま、随分経ってしまった。

 榎木津の知己達にも何所か行きたいと言っていなかったか聞いてみたが、皆心当たりは無いということだ。昔から榎木津を知っている者らが言うことには、榎木津がふらりと姿を消すことはよくあるらしい。大抵の場合は暫くするとよくわからない手土産とともに戻ってきて、もとの日常に収まるのだという。

「学生のころからままあったことだけど、解員直後が一番ひどかったな。」

 少し首を傾げて当時を思い起こす中禅寺は、いつもにも増して凄みのある仏頂面で、眉間に刻まれた皺の深さが榎木津によって迷惑を被ってきた年季を感じさせる。聞けば、失踪を疑われるような期間、全く音沙汰がなかったこともあるそうだ。

「――だって君、兄上に頼みこまれて仕様が無くなって、骨を折って居場所を突き止め態々訪ねて行ったら、本人はこちらの気も知らずにのんびり過ごしていて、ここは紅葉が綺麗だというからもう少しいるよ等と言いやがる――心配するだけ無駄だから、君も気にせず過ごしなさい。」

 そう云うと中禅寺は益田の方を見てから、肺の中に収めていた空気を全部吐き出すようにして深い溜息をついた。

「そんな顔をしていても、榎木津をつけ上がらせるだけだからね」

 途中から気を散らしかけていた(何せ、此処までに方々から同じような話を聞かされていた。)のを見透かされたようで気まずく、益田は早口で助言への礼を言って、その呆れたような視線から逃げるようにして中禅寺邸を立ち去った。

 関口も木場も、榎木津との付き合いの長い連中はだいたい同じようなことを言う。よくあることだから気にしないでいいと。その言葉は屹度正しい。自分が一番榎木津との付き合いが短いくせに、四六時中顔を付き合わせているものだから随分知った気になってしまっているが、出会ってから今までの間にそうした出来事がなかったのは偶々で、こんなにおろおろする必要はない、有りがちなことなのだろう。これだけ先達が口を揃えて云うんだから。

 それなのに、益田は芯からはそれを信じ切れずに、榎木津がどこで、どのようにして過ごしているのかを気にし続けていた。果てには榎木津の気分で発される理不尽な命令すら懐かしい気がしてきて、自分でも不思議なくらいに榎木津が居ないことを気がかりに感じていた。居たら居たで困らされてばかりなのに、早く帰ってきてくれないかなと思う。

 益田がこれまでに経験した榎木津の不在は、大抵何らかの厄介事の中で発生したものだったから、事件に対する得体の知れない不安と、彼の人の不在が紐ついてしまっているのかもしれない。あとは、探偵不在の事務所を預かっているという重圧から早く解放されたいとか。幸いこの間事務所を訪ねてきたのは「普通」の依頼ばかりで、益田だけで対応できていたが、ずっとそうとは限らないから。

 神保町のビルヂングに舞い戻ってきた益田は、今更ながらにそうやって自らの心を覆う分厚く靄々とした不安を腑分けし始めた。

#独白

 益田は、榎木津が不測の事態に陥って難儀しているのではと案じている訳ではないし、この先帰ってこないと思っている訳でもない。どこか行くなら自分でなくとも誰かに一言あっても良いのでないかとは思うが、これは不安でなく不満である。では変化球で、榎木津の失踪に同行者がいるのではないか、それが所謂良い人なのでは、と懸念しているというのはどうか。というのも、数年前から榎木津と益田の間には継続的な肉体関係がある。そして、益田の知る限りにおいては榎木津に自分以外にそうした相手はいないようだった。その特権が無くなってしまうのを恐れ、不安を感じているというのはどうだろう。

――それも、違う。

 この関係自体、非常に曖昧でいつ無くなってもおかしくない類いのものなのだから、不安というなら榎木津の居るうちから感じているべきだ。けれども、益田は、その不明瞭さにこそ安心していた。榎木津との関係に何か名前を付ける覚悟ができていないからだ。全てのものは名付けによって一般化される。名前が付くことで、他者の身に起きた出来事を自分の経験の中から探すことが容易になる。益田は、自分と榎木津の関係が他の人に「それではこういうものだろう」と理解される、あるいは理解したような気になられることを思うとどうにも辟易として、自分の内心においてすら、この関係に名前を付けることを避けていた。そもそも、榎木津に対して抱いている感情についても自分で判別つきかねているような状態だから、名付け以前の問題かもしれない。

 これまでで一番、自分人生に影響を与えた相手だからという理由で、安易に恋愛と位置づけるにはどうも違うような気がする。榎木津のことを思う時そこに、優れた人に対する憧れとか上司に向ける尊敬とか年上の知人への敬愛といった、世間一般から見て抱き得ると判断されるものからはみ出してしまった気持ちが存在することは確かだ。けれども、それだけを別に抜き出して、態々恋とか愛とか分類するには些か小さ過ぎる感情で、何時までも心の底にしまっておいても差し支えはないように思われた。

 とはいえ、何度も肌を重ねている相手ではあるから、この榎木津の失踪が運命の相手に出会ったことによるもので、その人と近々結婚するつもりだ、と聞かされたなら、かなりがっかりはするだろう。でもきっとそうなった時も、昔、秘密基地を作って入り浸っていた空き地に若い夫婦の住む小綺麗な一軒家が建った時みたいに、そういうことなら仕方ない、とすぐに諦めがつくような気がする。不義理を嘆くこともなく、さっぱりと、薔薇十字探偵事務所の探偵助手という世間から承認されている立場へと榎木津との関係性を巻き戻すことができると思う。ただ、どうも気まずいからとか、奥方への義理立てとかでその肩書きを取り上げられるとなった時には、泣きついてでも取り消してもらおうとするかもしれない。「お願いですから、僕をこのまま事務所に置いておいてくださいよ。決して奥様にご心配をおかけするようなことはありませんから」と。ああ、すると、自分にとっては、密やかに継続している私的な関係よりか、榎木津が探偵をしている様を堂々と側で見ていられる探偵助手という立場の方が重要なのだ。

――結局、そこなんだよな。

 この心許なさだって、結局そこから生じている。今現在立場を追われた訳ではないが、探偵助手というのは矢張り探偵ありきのものなのだから。

そこまで考えた後で、鈍々と応接ソファから身を起こして、隣の部屋にある自分の事務机に向かって歩き出す。

 領収書のはいった革のトレーと、その上に重し代わりに載せた昨年度の帳簿、鉛筆を別々の頁に二本挟んだまま閉じた電話帳、何種類かの地図帖等々が並ぶ、およそ整頓しているとは言いがたい机上。普段ならその真ん中にはやっとの思いで捻出した僅かな作業スペェスがあるのだが、今はそこに地図帖が開いたまま伏せて置かれていた。机の下にしまっている、背もたれの無い丸椅子を引き出してきて腰掛けて、目の前にある深緑の表紙をそっと持ち上げ、その下を露わにする。

そこには、いつも榎木津の机に置かれている、馬鹿馬鹿しくも象徴的な――「探偵」と彫られた三角錐が横たわっていた。

#発見

 まず予め断っておくけれども、これは益田が榎木津の居ない間につい魔が差して持ってきてみたものとかではない。 榎木津が帰ってこなかった日から二日くらいの頃だったか。何か書き置きでもないものかといって寅吉と榎木津の机を確認した折、二人してそれが無いことに気付いたものの、机周辺の床を探してみても、榎木津の私室を覗いても見当たらず、その時は一旦、ひょっとして持って行ったのかしらと推測して終わった。数日後になって、自分の机で報告書をまとめるために机の真ん中に広げてあった地図帖を何の気なしに持ち上げて、そして、発見したのだった。

 榎木津が自分が探偵であることを世間に示すために作ったそれを、自分の机の上で見つけてしまった日。益田はその光沢のある玄地に燦然と輝く白い二文字とたっぷり三十秒ほど向き合ってから、そろそろと右手を下ろし、元あったように覆い隠した。その後も割合長いことその前に立ち尽くしていたのだが、その間ずっと証拠隠滅を図っている最中の犯人みたく心臓が短い間隔で打っていて、耳の中では急激に増した血流の音がごうごうと聞こえた。自分でも異常に思うくらいに動揺していた。

 その時、夕食を準備するのか確認するためか、炊事場の方から寅吉に名前を呼ばれ、驚いて後ずさりした拍子に後ろに置かれた棚にぶつかり、その上に丸めて置いてあった資料(もしかしたら絵だったかもしれない)を落としてしまった。その音を聞きつけてやってきた寅吉へ、何故だか「なんでもありませんよ」とへらへら返してしまい、それから今に至るまで、榎木津が探偵の証をここに置いていっていることを寅吉に伝えることはできていない。

 発見以来、これについては努めて考えないようにして過ごしてきた。「普段榎木津の机にあるものが自分の机に移動されていた」言葉にすれば唯それだけのことで、他人に相談するにはとるに足らない出来事だ。相談されたところで相手もだからどうしたとしか思わないだろう。けれど、益田にとってはどうにも受け止めがたいことだった。できるなら向き合わないでいられる間に榎木津が戻ってくればいいと思っていたが、そろそろ自分の思考を逸らしておくのにも限界が来ている。というのも、答えを出すことから逃げているうちに益田の方で請け負っていた依頼に全て一応の決着がついてしまったのだ。手が空いていると、これまで以上に榎木津の不在に気をとられやすくなってしまうことは容易に想像がつく。それは――良くないよなあ、と、こうして再び「探偵」の表示札に向き合いつつ、益田は思案した。何が良くないと言って、今不安がっているのが益田だけというのが良くない。益田は、己の陰気さを染み出させない、周囲に悟らせないというのを信条にしているのに、既に和寅や中禅寺、関口に木場といった面々に気を遣わせかけている。こういう、自分のペェスを崩されて寄る辺ない思いをしている状況は一番益田にとって好ましくないところだ。そんな訳で、なるべくやらないでおきたいと思っていたこと――事務所から出て行った日の榎木津の心理について考えてみることにした。

#推理

 まずは基本に忠実に。既に出ている情報を整理していくことにする。寅吉が買い出しに出かけたのが七月六日の一四時。榎木津は自室に居たという。出て行く時に声をかけたら生返事ながら返答があったらしいので、その時までは慥かに部屋に居たようだ。一五時過ぎに戻って来たときにはもう外に出かけていて、その日から音沙汰がない状態である。買い物の帰りにすれ違ったりはしなかったそうだから、大通りの商店街側へ出かけた訳ではない。通りで聞き込みをしても、歩いているのを見かけたという人が見当たらないから、迎えの車が来たのじゃないかと思っている。暫く停車していたなら、それを見かけている人が居るように思うから、依頼人が車で尋ねてきたのではなく、先に電話を入れて、下に車が停まったのを見て榎木津が降りていった、という方が有りそうだ。もしそうなら、急な喚び出しに応じるのだから、ある程度信頼関係のある相手だろう。イヤ、面白そうな話だったなら意気揚々と乗り込んで行ってしまう気もするか。誰ならあの人は素直に乗っていくだろう。ご家族というのが一番該当しそうなところだが、その線は寅吉に確認して貰って消えていた。まあ、迎えの車を寄越す知人なんか、榎木津の周りには山ほど居るか。

 それより重要なのは、榎木津が一時間ほどの間で出て行ったということである。旅支度をするのに十分とはいえない時間だ。唯でさえ服選びに時間がかかる人であるし、余計なことをする暇はなかっただろう。そんな中で態々三角錐を益田の机に置きに来ているのだから、何らかの意図があるはずなのだが、それがよく判らない。

 例えば、不在にするのに合わせて応接から除いたのでは、と考えてみる。事務所を訪れた客が他の者を探偵と勘違いすることの無いようにである。ただ、確か由良邸に呼ばれた時や日光に行っていた時には、この三角錐は榎木津の机の上に置かれた侭だったように思う。広い机の上にぽつんと置かれた姿に覚えがある。今回偶々思いついただけという可能性もあるが、居ない間だけ片付けておくのなら、私室の方に引くのが道理だろう。そうではなく益田が普段使っている机へ置かれているのには、何か理由があるのじゃないか。例えば、伝言代わりに置いただとか。もしそうならどんな意味が託されているものだろう。

不在の間、「探偵」をお前に託すとか――はないよな。

ないない。有るはずない。流石にそれは思い上がりが過ぎるというものである。探偵の前でうっかり口に出そうものなら悪口雑言の集中砲火は請け合いだ。榎木津には前々から明瞭と、それこそ益田は此処に訪れたその日のうちに探偵の器でないと言い渡されているのだった。最近は榎木津の云う探偵には成れないだろうがそこはそれ、と割り切って、外向けには主任探偵等と名乗り初めているのだが、榎木津には引き続き探偵の見習いとして扱われている。

 顔の熱さを払うようにぱたぱたと手で扇いで、もう少しマシな考えは出てこないものかと頭を捻るが、伝言代わり、という考えは中々心から離れていかなかった。実を言うと伝言として置いたというのは、今しがた思いついたという訳ではなくて、見つけた時からそう思ったのだ。ただしその時は。

――今回出て行くのは「探偵」としてではないよ、という意味かなと思ったんだよな。

 榎木津が偶にしているように、手の中で三角錐をくるくる回してみる。何処の角度から見てもいいように、三面全てに探偵の文字が彫られている。人間はとてもこうはいかない。

「誰にも何も依頼されていないから」

大磯の事件で、榎木津のらしからぬ行動を「いつもと云ってることが違う」と詰ったときに言われた言葉だ。

 情けないことだが、その時初めて益田は探偵ではない榎木津というものが存在することに気が付いた。

 榎木津と初めて会ったのが、正に探偵を「やっている」場面だったから、益田にとって榎木津といえば探偵の榎木津である。しかし聞けば、箱根の事件の時、榎木津は探偵事務所を初めてから一年も経っていなかったのだという。探偵の前はギタリスト、その前は挿絵画家、その前は海軍将校だったとか。それならば、今後探偵でなくなることだってあるのかもしれない。「探偵でない」榎木津はそんな未来を想起させるので、本当のことを言えば、今でも益田はその存在を認めることに少しだけ抵抗がある。自分だって世間に見せている姿と性分には大分隔たりがあるというのに、勝手なものである。更に言えば、榎木津自身に踏み込むことを恐れている反面、ここからはお前に関係ないと線を引かれてしまうのも、それはそれで寂しいと思うのだから、身勝手極まりない。

 机の上に探偵の証を認めた時、何故だか酷く動揺してしまったのは、探偵として行くのではないからお前は関係ない、というメッセージのように感じたからかもしれない。似たようなことを平塚の警察署でも言われたように思う。

あれから四年も経っているのだから、もう少し信用してもらってもいいのではないか。私的なやり取りもかなり重ねたと思うのだが。・・・・・・そういう憮然とした思いと、それだけの時間をかけても榎木津の内側を正面切って覗き込む覚悟が決まっていないのだから仕方がないという内省が混ざり合った気分に陥りかけ、また頭を振ってそれを追い出す。そういう、自分に不都合な方向の妄想で思考停止して一ヶ月過ごしたのだから、同じように考えていても仕様がない。

 第一、関係ないとからといって、探してはいけないというものでもない。探すなと言いつけられた訳ではないし。今は他の依頼もないのだから、本気になって探してしまっても仕事を疎かにしていることにはならない。依頼で探すのではないから、見つけたところで何の意味もない反面、見つけられなくても誰の迷惑にもならない。榎木津は無駄なことに時間を費やしてと笑うかもしれないが、右往左往する下僕の様を存分に楽しんでいただこう。

そ うやって自分を奮い立たせて、その勢いのまま、別の方向に思考を向けてみる。今までは、意味ありげに隠されていた探偵の証には何か意味があるのでは、という気持ちに引きずられ過ぎていたかもしれない。榎木津は気分屋かつ我が道をいく人であるし、益田の事なんか考えないのが普通ではないか。そんなら、本当に意味なんてなくって、置き忘れただけ――ということはあるまいか。

ただ、それにしては場所が妙だ。

 事務所から外へ出て行くには、応接セットの奥に置かれた榎木津の机から見て左手に位置する階段を降りるだけで良い。対して、資料室兼物置兼益田の私室といった立ち位置のこの部屋は、寅吉の私室やキッチンと共に右手側にある。つまり、榎木津が出発しようと思った時、通路の構造的にこちら側へ来る必要は全くないのだ。偶々この部屋に三角錐を置き忘れたとするなら、榎木津は何か別の目的が有ってこの部屋に立ち寄ったことになる。それが思いつかない。

 物置的な色が濃くなっているとはいえ、元々此処は資料室という位置づけなのだから、何か調べるためだとか――いや、下調べのような堅実なことをするような人じゃないから、もっと単純に、何か必要なものがあって取りに来たくらいのものだと思う。でも、益田の机以外で何かを探したような形跡は見当たらないし、その机の上だって無いはずのものが有ったこと以外は特段変わったところはない。上に被さっていた地図も、いつも最後に使った頁で開いたままにしているから、三角錐が置いてなければ一旦持ち上げられたことにも気付かなかったかもしれない。

 ああ、でも、そうすると、この地図帖については確実に榎木津が手にしたことになるか。

 そう思ってみると、行き慣れぬところに出向く前に地図を見ておこうとなるのは有り得る話かもしれない。地図なんか榎木津の方が良いのを持っていると思うが、場所によっては旅行向きなのを益田が持っているという場合も有るかも知れぬ。思いついて、先ほど三角錐を抜き取ってから目を向けてなかった地図帖の方へ手を伸ばして天地を返す。開いていたのは渋谷のあたりで、依頼の関係でその辺りについて見た記憶があるから最後に益田が使ったときの侭だと思う。一月前のことだからあまり定かではないが。こちらの少し大判なものとは別に持ち歩ける大きさのも持っているので、この間はそちらばかり使っていたのだ。

当てが外れたような気がしたけど、これ自体東京の区分地図なので、榎木津がこの地図に用がある可能性は元から低い。ぺらぺらと頁を前の方へ、表紙裏と中表紙の見開きの位置まで繰ってゆく。旅先で買った観光地図なんかをここのところに挟んで保存するようにしていた。

――全部揃っている。どれか抜けていたなら、それを持って行ったんだろうと予想がついたのだが、空振りに終わった。溜息をついて立ち上がり、地図帖を閉じて机上の左側に立てて並べた冊子類の一番端に持たせかける。すると、横に並んだ前使っていた方のが目に入り、こちらも手に取ってみた。刑事をしていた頃使っていた、神奈川県の住宅地図だ。同じように前の方に一枚物の地図が四折挟んである。折ったままのを親指で繰って確認したところで、どくん、と心臓が揺れた。挟んであるつもりだった、箱根一帯の地図が無い。地図は皆適当に畳まれていて、題が中へ折り込まれているものもあるから、見落としたのかもしれない。もう一辺、今度は地図を一枚一枚広げながら確認した。やはり無い。箱根の交番に赴任していたときによく使っていた、観光組合の出した地図で、裏側に協賛した商店の電話番号がまとまっているもの――が、無い。丁度使い勝手がよい縮尺で、交番勤務を解かれた後も箱根近辺の事件の地理確認に等で使い込んでいたから、捨てたということはない。榎木津によって、箱根の地図が持ち去られている。このことはもう、かなり確実に思えた。

#出発

 やっと手がかりらしきものを見つけた興奮に忙しなく鳴る鼓動を少し落ちかせようと、また丸椅子へ座り込む。机に広がった地図を見て、こうやって探したなら手に持っていたものを見失うこともあるかも知れないと思った。

 しかし、箱根に居るとしたなら何の用だろう。夏は箱根の行楽に人気の季節ではあるけども、時期が合い過ぎているからかなり混むし、あまり榎木津向きには思えなかった。榎木津の周りには自然と人が集まるけども、本人は不特定多数の人が集まっている場所は好まない。体質に関係するものと思われる。榎木津だけの思惑では行かないような場所、となると呼ばれて行ったとか一緒に行ったとか他者が関与している可能性が高い。つまりは、増々自分に「関係ない」案件な訳だが――行ってしまおうか。

 一口に箱根と云ったって結構広いし、避暑目当ての観光客でごった返している中で目当ての人を探し出せる可能性は低い。けれど、一度其処へ居るかもと思ってしまうと、行って探してみようという気を押さえられなかった。何か理由を付けて事務所を空けるならば、手持ちの依頼もなし、榎木津目当ての訪問の予定もなしの今が一番好都合とも思われたし、心理的にも行きやすい場所であることが気のはやりに拍車をかける。箱根は交番勤務時代に配属された土地だから知り合いも多く、頼み込めば二三日泊めてくれそうな当てもあった。この時期、小田急が鬼のように混んでいることにだけ目を瞑れば交通の便もかなりいい。神保町から新宿までは都電で一本だし、新宿小田原間は普通で二時間くらい、小田原から箱根湯本は三〇分位だから、後一時間ほど前に気付いていれば、明るいうちに向こうへ着けていた可能性すらあった。それは丁度、榎木津が姿を消した辺りの時間だ。

――うん、もう行ってしまおう。行ってしまえ。そう決めてしまってからは、此処まで愚図々々していたのが嘘のように速かった。

 早速、買い物から帰ってきた寅吉に、盆も近くなってきたことだし久々に実家へ顔を出してこようと思うと伝えると「ああそうかい」と何ということもなく了承された。行き先を偽ったのは、あれだけ心配ないと皆が言っているのに、心当たりが出来た途端に探しに出るというのが気恥ずかったからだ。ただ、その出任せの方便のために夕飯の後、「親孝行しといで」と日持ちする手土産を渡されたのには罪悪感を覚えた。まあ、消費に困っていた貰い物の横流しであるし、知人に泊めて貰う礼とでも言って押しつけてしまえばいいか。益田がそこらで見繕うよりよっぽど物はいい筈だ。そんな算段をつけつつ礼を言って、夜のうちに荷物をまとめ、翌朝早々に事務所を発った。

#道中

 新宿駅に着いて、ホームに停まる小田原行きへ乗り込むと、出発まではまだ時間があるというのに席が埋まりかけていて、慌てて手近な空席へ腰を下ろす。新宿小田原間を七〇分で結ぶ特急というのが話題なので、人はそちらに流れているのかなと思いきや、そうでもないようだ。早めに出て正解だったなと思いつつ、そんなに早く着いてどうするんだ、という気もする。実は箱根でどう動くかをさっぱり決めていない。箱根で交番勤務をしていた時の先輩へ昨日電話したら、今も箱根の駐在所で巡査部長をやっていて、上京した息子の部屋が空いているから宿が取れなかったら泊めてやると言ってもらえたのだが、あまり早く訪ねても迷惑になる。夕方が頃合いだろうか。そこまでどうしようか、というかどこから手を付けるべきか、到着してからもたつかないためにはこの移動中には決定しておくべきなのだが、どうも決めかねていた。

 発車ベルが鳴って車体が動き出し、横向きの力がかかる。隣に座っていた婦人が身体を制し切れずに少しぶつかったのを申し訳なさげに謝ってきたので、イエイエ・・・・・・と手を振って構いませんよと伝えると、軽い会釈の後に母親と見える老齢の女性へ向き直り話を再開した。逆隣に座っているのは恋人同士なのか若い夫婦なのか、親しげな様子の若い男女で、前に行った時はどこを訪ねただとか、今回の宿は奮発したから楽しみだとか、そういったいかにも旅行客という話題で盛り上がっている。車内にも何となく友人恋人家族等、関係性はそれぞれでも、誰かと共に来ている客が多いような雰囲気で、少し心細いような気分になるとともに、榎木津も誰かと一緒だっただろうか、という考えがまた頭を擡げた。

 家族でなく古くからの友人でもない榎木津の人間関係となると、益田が知っている中では、骨董屋の待子庵を経営しているという――嗚呼、箱根の事件では重要参考人だったこともあるというのに名前をど忘れした。榎木津がまともに名前を呼ばない弊害である。まあ、屹度あちらも益田のことも益山君か「助手の彼」と思っていることだろう。兎に角あの人――と、釣堀を経営している伊佐間さん、くらいか。二人とも榎木津の海軍時代の部下だとか。折に触れて会う割にしっかりと話したことはないが、伊佐間の方はついこの間中禅寺邸ですれ違い、少し挨拶をした。その時、榎木津が不在にしていることも話したのだが、伊佐間自身、四国の方を旅行していたのから戻ってきたばかりでここ暫くは会っていなかったとのこと。「そうでなくとも、あの人の行き先に当たりを付けるのは、ね――」という言葉に益田がうんうん頷いていると、日持ちのするものを買っておいてよかったな、と言いながら土産を寄越して、「それじゃ、がんばってね」と立ち去っていった。なんだか掴み所のない人だった。

 そもそも釣堀屋の店主という職業からよく分からない。旅の間、釣り堀はどうしているのだろう。魚達は暫く放っておかれても元気にやっていけるものなんだろうか。

 ちなみに今回寅吉が益田に渡して寄越したのが、その時貰った鰹節である。土佐の名産らしい。同じものを貰っていた中禅寺からその歴史の深さについての御講釈もしっかりいただいた筈なのだが殆ど忘れた。ただ乾かすんじゃなくてカビをつけて発酵させるみたいな話だったと思う。寅吉へ聞いたばかりの蘊蓄を披露した時に「それじゃ納豆と同じなのかい」と言われて有り難みが薄れた記憶があるので。

「楽しみだわ。あたし、夏に行くのは初めてなの。前に行ったのは冬でね。温泉街のあたりをちょっと歩いただけで、すぐ宿に引っ込んじゃったから。」

「秋も冬も良いけどね、夏はもっといいよ。」

 左のアベックの楽しげな会話をきっかけに、前に箱根を訪れた時の記憶が――顛末を説明されても腑に落ちないまま、けれども慥かに終わってしまった、あの殺人事件の記憶が呼び起こされる。

 雪雲の下に座した亡骸を持ち上げた時のどんよりとした重み。揺らめく灯火の作る陰影で飾られた老師の顔。枯れ枝の如き腕で鳴らされたとは到底思えない轟音で鳴った鐘楼。怒声。折れた警策。糸で吊られた様に美しい立ち姿と、焼け跡の中に臥す炭化した肉体。初対面から死面に相対するまでの期間が短すぎたからか、死んだ僧侶達に関する記憶は生前の姿と死後の様子が混ざり合って思い出された。短いながらも同じ時間を過ごした人間とその死面とを、並列して記憶していることの罪深さにぞっとして目を伏せるけれど、モノクロオムの光景は残像のように瞼の裏に焼き付いて中々消えてくれない。

 意味の解らない死体、意味の無い死体――それらを自分達にも理解できるよう必死に理屈付けている間に全てが終わってしまったという印象の、ずっと現場に居たのに何故だか絵空事のようにも思われる、どうにも整理の付けがたい事件だった。

 事件直後は、中禅寺の憑き物落としも雪の中の大伽藍が炎に巻かれる様子もこの目で見ていないから、宙ぶらりんな気持ちを抱えてしまったのかなあとも思ったが、その両方に立ち会った筈の山下も同じようなことを言っていたから、多分そこは関係無い。それに、探偵になってから何度か中禅寺の憑き物落としに立ち会ったが、特殊な場が崩壊する現場に居合わせたところで、万事解決という気持ちには到底ならず、いつも割り切れない、やるせない思いを抱えたまま終わるのが常だ。

 それでも、箱根の事件は益田にとって、どこか特別である。普段はそう思い出すこともないのに、ふとした時に夢に見てしまったり。そんなつもりはないが、刑事として関わった最後の事件であるし心残りがあるのかもしれない。

 夢はいつも同じ筋書きをしていた。益田は控え室代わりに宛がわれていた仙石楼の一室で眠り込んでいて、そこを「また死体が発見された」という声で起こされるところから始まる。暗闇の中急いで声の方に向かっていると、廊下に座り込んだ人に行き会って、近寄ってみるとそれが関口だと分かる。関口が浮かべる陰鬱な表情を見た途端、足下が抜けるような不安に陥って、動揺のままに「亡くなっていたのは誰なんです」と問い糾すのだが、「誰なら良いというんだい」と訊き返されて、それに答えられない――という夢だ。

 事件から随分経つのに定期的に見続けている。何故だか一環して舞台は一番殺人の起こった明慧寺でなく仙石楼なのだが、他の要素は少しずつ違う。当時そこに居合わせたはずのない人がいるとか、途中で合うのが関口でないとか、益田自身も刑事でなく探偵助手だったりとか。

 そうだ。折角近くに行くんだし、仙石楼にも寄ってみようか。平和な仙石楼を見れば、益田の無意識も不吉な夢の舞台に選びづらくなるかもしれぬ。時間は十分にあるし。箱根湯本駅を一旦通り過ぎて大平台で降りて行けばいい。自費で泊まれるような宿では無いけれど、事件中の事情聴取や諸々の事後処理などで番頭や仲居らとはかなり話したから、顔を覚えてくれている人もいるだろう。ちょっと近くを通りかかったからと言って手土産を渡して、近況をちょっと訊いたりして仕事の邪魔にならない内に立ち去ればよい。世間話の流れへ自然に持ち込むことには自信がある

 誰かに依頼されたわけでもないのに人を探すのは初めてで、仕事では自然と立てている調査の方針を立てあぐねていたが、仙石楼を訪ねると決めれば、後は残った時間に必要なことを嵌め込むだけでよかった。箱根湯本に戻って少し聞き込みをしてみて、夕方には芦ノ湖の方にある先輩の家を訪ねることにしよう。

 思いのほか早い内に段取りが決まって晴れやかな気持ちになりながら、いそいそと肩掛けの鞄から昨日京極堂で購入した文庫本を取り出す。本はどこでだって読めるものだけれど、移動中に行う読書の特別感が益田は好きだった。知った物語でも旅情に彩られるとまた感じが変わるものだし、初めて読む本であれば、次に読んだ時に旅の記憶も合わせて思い出されたりする。買ったときには翌日箱根に向かうことになるとは思っていなかったから、今日持っているのは適当に手に取った一昔前の猥雑な探偵小説だが、それでも気づけば集中して読んでいた。芝居がかった調子で綴られる読者への挑戦に差し掛かり、一旦ここまでの物語を振り返るために頁から目線を外したら、知らぬ間に小田原がすぐそこへ迫っていて驚く。終点近くになって少し人が減ったから、開いた窓から入る風が勢いよく頬に当たって心地よい。

 しかし、こんな夏休みの小旅行にぴったりの日に、行方不明の探偵を探して過ごそうとしているなんて、本当に馬鹿馬鹿しい話だ。自分でもそう思う。もういいやと思ったら直ぐ止めて遊びに切り替えてしまえばいい、そう心に言い聞かせるけれど、気を抜くと性懲りも無く榎木津はこの日をどんな風に過ごしているんだろうか、だとか考え初めてしまうので、死んでも治らない真性の馬鹿と言えよう。もう開き直って目一杯馬鹿をやらねば、と床を蹴るようにして立ち上がって小田原駅のホームへ降り立った。

@m_aino
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