旅行行く話の導入

m_aino
·
公開:2024/7/9

すごく前、(と言ってもたしか去年の10月くらい)に、旅行する二人の話を書きたいなって時があって、その時に書いてたメモを書き足したもの。どなたかが書いてらした注意書きで、「榎木津さんが弱いです」ていうのにくすっとしたことがあるんですけど、これは書いといた方がいいやつかもしれない。榎木津さん弱めなのでご注意ください。

-----

ぐいと抱き寄せると、意識はあれども脱力しきった身体はいつもの抵抗や緊張を示さず、素直に腕の中に収まった。

「旅行にでも行くか」

独り言のように云うと、益田は眠たげに鈍々とこちらを見上げ、その動作の途中で内容を理解したようだった。

「何処に行かれるんです?」

己が誘われていない場合にも齟齬が出ないよう工夫された問いかけに、そう、こういうところがずうっと気に食わないんだよなあ、と思う。すると、こちらの思考は全く理解しない割に感情の変化だけは敏感に察知して、細い眉が寄って不安げな面持ちになる。一方で、口元は繕うように三日月型に歪んでいく。その癪に障る唇の動きを唇で止め、けれども、二人で行くんだとは云ってやらずに、問いかけの内容だけ受け取って候補地をいくつか見繕ってみる。

日光はこの間行ったばかり。箱根は、季節が違うから多少気分も違うが、屹度行く道であの雪中の寺を思い出す。そもそもこれは生まれが神奈川なのだし、里帰りは勝手にすればいいが旅に行くならその道程も珍しいとこの方がいい。伊豆は、山中での大騒ぎを連想させるだろう。自分を見失わせる術が蔓延っていたあの一件は、死人こそ少なかったものの近くの人間ばかり狙って拐かされたものだから、益田は全部終わった後にも暫くの間、セキの様子なんか気にして不安定にしていた。此処で寝起きしたがるようになったのもあの辺りからだと思う。矢ッ張り山よりは海がいい。泳ぐには早いけれど、空間が仕切られない地の方が気分も上がる。嗚呼でも——湘南はいけないのか。江ノ島も鎌倉もいいけど、大磯がある。

全く、行きやすい観光地にばかしこれが気を散らす過去が煮凝っていてやりにくいことだ。一々気にするのも馬鹿らしいし、そういうのを蹴散らし上塗るような旅行にしてやったって良いけれど、どうせならまずはけちの付いていない場所で、楽しいだけの記憶を——。

「仙台がいいな」

良い思いつきに頷いていると、釣られたのか益田が先程よりは幾分上手に、莞爾としてみせるので頭を撫でて褒めてやる。これまでそうしてやった時には大抵、含羞みながら児童じゃないんですよう、と云っていたが、今日は外聞が無いからか目を細めるだけだった。

「宮城なら松島かと思いましたが、先ず仙台?」

「ウン、行きか帰りかで松島に寄ってもいいけど。喜久がこの間牛タン焼き喰って美味かったと云ってたから、仙台。」

「ぎゅうたん?それって……」

"tongue"と綴ることに辿り着いていない様子の質問を遮って、れ、と舌を出して見せると、愚かにも自分でも少し舌を出して見て、そのまま小首を傾げるので、露出されたそこに吸い付いてやる。切れ長の目が瞬時に丸く見開かれると些か胸の空く気がした。気だるげにしているのも趣はあるけれど、反応は機敏な方が面白い。仰け反って逃れようとする頭を片手で止めて、舌を引っ込めようとするのに軽く歯を立てると、じたばたとしていた身体は僅かに震えたのを最後に停止する。噛みちぎられるのを想像してか、さっきまで緩んでいた身体はすっかり固くなっていた。そんな筈ないのに、馬鹿だなあ。そのまま表面の凹凸を歯に感じつつ奥から舌先に向かって移動させていくと、普通より長い舌、適当な言葉を紡ぐ時だけよく回る舌が、粗方体外に引き出される。仕上げにもう一度先の方を音が立つように吸って、ゆっくり顔を離す。

「そう、そのタンだ」

指さして教えてやる。引きから見て満足したので指を振ってもういいよと云うと、今の間に持久走して来た様な疲れた面をしながらそろそろと舌をしまっていくのが可笑しくって笑った。

「今の絶対、不要でしたからね。口で……じゃない、言葉で教えてくれたらいい話でしょ」

「外国語は身体で覚えろというだろ」

それは実地で話すと早く身に着くという話ですよ、と腑に落ちなさそうに零してから、益田は何の話でしたっけ——と中空を見上げた。

「ああ、牛タン焼きか。仙台でねえ。聞いたことなかったなあ」

「僕もシチューで食べたことはあっても焼肉みたいにして食べたことはなくって、そしたら今度行こうという話になったんだ。でもあいつ今また海外に居るから。珍味の類だし人を選ぶかと思ったけど、お前は意外と何でも良く食べるじゃない」

——だからお前と。そう結ぶと、こっちを向いてぱちぱちと目を瞬かせたあとに、少し怪訝そうな顔で「まあ、慥かに僕ァ食べられるものは何でも食べますけど……」とか云う。何でその志でこんな肉付きになるかな、と肋骨の浮いた身体に手を這わせるとくすぐったそうに身を捩る。

「榎木津さんとか司さんとか、あと刑事やってたときも、年長の人は心配して何かとよく食べさせてくれるんすけど、あんまり肉になんないんですよね」

これは体質ですよねえ、良くしてもらってるのに申し訳ないなあ、と歌うような調子で云った後に、一転してか細い声で、でも行きたいです、仙台。と続けた。聞き逃すのを狙っているのかと思うようなやり口だった。

「連れて行ってやると云うんだから、ハイ行きます、以外にないだろ。何勿体つけてるんだ。」

「すいません。ええと、司さんの代役が務まるかという不安ゆえです。後は、っと……何でだろう。よく判らないや」

「バカオロカともなると、自分のことも判らないんだからいけないな」

折角起こしてやったのに再び睡魔に抗えなくなっているらしく、欠伸を噛み殺しながら話している益田の返答は何処となく舌足らずだ。投げやりでもある。それを咎めてやってもよかったけれど、如何にも眠たそうに頭を揺らしている様子にこちらの眠気も誘われてきて、脇にやっていた枕を一つ引き寄せた。蹴落としていた毛布も戻してきて、横になって頭を枕に預けると途端に眠たくなる。一つの枕に下僕の頭を載せる余地はないから、益田のことはそのまま腕に載せてやっていたが、座りが悪いのか腕を避けるようにして、もぞもぞと下がっていく。物の価値がまるで判っていない男だ。そのまま毛布に頭が殆ど埋まる位置まで行くと漸く落ち着いたようで、こちらをはたと見上げ、

「ああ、でも——でも、ついていきたいというのは本当ですよ」

と、いやに据わった目で念押しするように云った。いつもならきょときょとと動かしてばかりの視線と自分のとがぶつかること自体珍しくて、ただ視線を受け止めていた。僕の貌も視えないようなうちのこと、時間にしたら一呼吸にも満たない僅かな間だったと思うが、長い時のようにも感じた。

そのうちに黒い瞳は落ちてきた瞼の下へと仕舞われて、開いたままの口からは、すうすう寝息が聞こえ始める。そんなもう知れたことを繰り返す暇があるなら、お休みなさいとでも云って寝ればよかったのにと思う。主より先に寝落ちていい気なものだ。小突いて起こしてやろうかとも考えたけど間の抜けた寝顔を見るとそんな気も萎えて、眠気を呼び戻すための欠伸をした後、僕も寝ることにした。何だかやけに溜息めいた欠伸になった。

@m_aino
bsky.app/profile/main0.bsky.social ブルスカで直にはちょっと呟きずらいやつに、1段階挟むために利用中。