3連休の初日、学生寮時代の同期4人で新年会をした。
会場は友人Yの自宅。のどかな田園地帯に家を建て、夫・子供3人・大型犬2頭・猫1匹と共に暮らしながら畑を耕している。そこに遠方から訪れた別の友人Nが滞在しているので、日程を併せてご一緒しようという形だ。
B嬢と私が食料調達係になったので、初めてピザ屋でピザを持ち帰り注文した。誰かが用意してくれた宅配ピザや持ち帰りピザのご相伴に預かったことはあるが、自分で買うのは初めてだ。サイドメニューの揚げ物も買い、自宅で作ったクラムチャウダーとポテトサラダも持ち込んで、いい感じにホームパーティー感が出た。

B嬢とはしょっちゅう遊んでいるが、Nとは2年ぶり、Yとは5年ぶりに合う。学生時代の入学アルバムや卒寮文集を引っ張り出してひとしきり昔話をした。
私たちが暮らしていた学生寮は2人部屋で、同室相手のことを「相方」と呼ぶ文化があった。誰と誰が同じ部屋に振り分けられるかは1学年上の先輩たちによるドラフト会議であらかじめ決められており、Yと私は名字が似ているという理由で同じ部屋に割り当てられた相方同士だった。
大学1年生の4月1日、両親と一緒に荷物を抱えて寮の部屋の扉を開けると、既に来ていたもう一人の新入生が二段ベッドの上から顔を出して「ちわっす」と言った。「おれ、ベッドの上もらっていい?」それがYだった。
のちに周囲から「一週間くらい見分けがつかなかった」と言われるほど外見まで似ていた私たちだが、性格はあまり似ていなかった。物怖じしないYと引っ込み思案な私は、部屋に一緒にいてもあまり会話が弾んだ記憶がない。それが原因というわけでもないが、互いに外泊の多いサークルに所属したり別の部屋の子と仲良くなってそちらに入り浸るようになったりして、部屋で二人で過ごすこと自体とても少なかった。
顔を合わせない日が多かったが、部屋を共にする以上は意思疎通する必要がある。当時携帯のメールアドレスも交換していたが、Yはメールではなく私の机に度々書置きを残した。書置きは「愛する妻へ」で始まり、「夫より❤︎」で締めくくられていた。そういってはくれるけど、ほんとに愛されてるのかなあ……もっと違う人が相方だったほうがよかったんじゃないかなあ……そう思いながらも嬉しくはあって、書置きは大事にファイルにしまっておいた。
あるとき寮のイベントに2人で出ることが決まった。Yが夫、私が妻の役で「三年目の浮気」を歌って演じる一発芸みたいなものをやることになった。顔を合わせることがない私たちは全然練習や打ち合わせをしなかったが、なんとかなるだろうとぶっつけで本番に臨み、思いのほかウケて会場を沸かせて何かしらの賞をもらった。
相方としての自覚が出てきたのはそのときからかもしれない。寮の友人たちは、私たちのことを「別居夫婦」と呼んだ。実際私たちは「別居だからこそ何とかうまくいってる夫婦」そのものだったと思う。この関係は寮を出るまで1年間続いた。
そんな乾いた夫婦関係だったので、寮を出て卒業までしたらもう会うこともないものだと思っていたが、幸い共通の友人たちに恵まれて何年かに一度のペースで顔を合わせている。会話が弾まなかった寮の部屋での気まずさはどこへやら、会えば楽しく話は弾むし、昔話も近況報告も話題は尽きない。
寮の頃の懐かしい話をしていたら「毎回ラブレター書いて置いてたのにさあ、おれには全然くれなかったよな~!でも全部わざわざ保管しててさあ、恥ずかしいから捨ててくれよ~!笑」とYに言われた。あの頃ちゃんと愛されてたのにそれを返せてなかったのは自分の側だったんだと、今頃気づいた。ごめんね!
皆で寮の文集を見ていると、ランキングコーナーの「愛方ベスト3」という項目にYと私の名前がランクインしていた。そういえばそうだったっけな。寮には同室の相方のことをカップルや夫婦に見立てて「愛方」と呼ぶ文化があり、あらためてあの頃の私たちは自他ともに「愛方」同士だったのだ。
新年会の翌日、B嬢と二人で懐かしい寮の周辺と大学構内を散歩した。今となってはもう当時のような集団生活に戻ることはできないが、人生の中の一年間を濃厚な学生寮で過ごしたことと、一生付き合える友人たちに出会えたのはつくづく幸運なことだったと思う。
大学は共通テストを控えてしんと静まり返っており、近くの文化ホールでは二十歳の集いが開かれて晴れ着の若者たちが記念写真を撮っていた。今年も春がもう近い。