『作りたい女と食べたい女』への期待と批判について思うこと
漫画『作りたい女と食べたい女』を原作とした実写ドラマの2期放送に伴い、世間の期待と批判がまた目に留まるようになったので、これについて数年前に書き留めた考えを見返し、少し推敲して載せることにした。※ドラマ版は見ていないので触れません。
◆『作りたい女と食べたい女』とは
日本の漫画作品。料理をたくさん作りたい女性「野本さん」と、たくさん食べたい女性「春日さん」。同じマンションで各々一人暮らしをしていた二人が知り合って食事を共にするうち、ご近所さんから大事な人へと関係が変わっていく様子を描く。料理と恋愛に加え、マイノリティ(女性、子供、同性愛者、Aセクシュアル、会食恐怖症など)の生きづらさに焦点を当てた社会派な要素が強いことも特徴。
上記紹介とも重複するが、この作品には大きく3つの要素がある。
①マイノリティの生きづらさに焦点を当てた社会的メッセージ性が強いこと
②友情やシスターフッドに留まらない女性同士の恋愛を明確に描いていること
③レズビアン/同性愛者であることを主人公が自覚し、作者も明言していること
ゲイカップルの食事と生活を描く人気作『きのう何食べた?』と共通点が多く「女性版何食べ」と評されることもある。二人が距離を縮める過程や互いの在り方を尊重した会話劇が丁寧に描かれており、「こういうのが読みたかった!」と多くの読者に支持されている作品だ。
一方、話題が広がるにつれ批判も多く見るようになった。
理不尽な社会の描き方に作者の思想が表れすぎていてしんどい
恋愛に発展してしまって残念、友情のままが良かった
ただの”好き”じゃ駄目なの? レズビアンという設定にする必要ある?
それぞれ①②③の要素に対する内容だ。初めはこうした批判や感想を見るたび「え、だからいいんじゃん」と反発する気持ちを抱えていた。しかし途中から、読者層が広がって「①②③のうち合わないものがある」人にも届くようになった結果なのだろうと思うようになった。
②③は良いけど①が合わない人は、「家父長制や男性支配からの脱却」という同性愛のエクスキューズにもなりかねない要素(男が嫌いだから同性を選んだように見えてしまうリスク)を抜きにして、ただ惹かれ合う女性同士の恋愛話を求めているのかもしれない。
①③は良いけど②が合わない人は、生きづらい社会の構成要素の一つである恋愛主義とも決別して、友情で乗り越えていく女性たちのシスターフッド物語を期待したのかもしれない。
①②は良いけど③が合わない人は、同性相手に愛情を感じた=レズビアンである、というカテゴライズ自体に違和感や生きづらさを感じているのかもしれない。
憶測だが、批判をこのように解釈した場合には、自分自身も共感する部分が多くある。作品の評判が広がった結果として大きな期待を背負いすぎてしまい、また作品自体にもそれらを全て背負うには描写不足なところがあるゆえに、批判の多さにつながってしまったのだろう。①+友情、②+③などを描く作品がもっと多くあれば、期待や批判は分散するのではないかと思う。
『付き合ってあげてもいいかな』との比較
前述したうち「③レズビアン/同性愛者であることを主人公が自覚し、作者も明言していること」について、『付き合ってあげてもいいかな』と比較してもう少し掘り下げたい。
◆『付き合ってあげてもいいかな』とは
日本の漫画作品。大学の軽音サークルに所属する女性「みわ」と「冴子」を中心とした若者たちの恋愛群像劇。互いに「女の子が好き」ということが分かり「せっかくだから付き合ってみない?」から始まった関係が、熱量の差や性欲の不一致による行き違いを経て次々と形を変えていく様をリアルに描いている。
『作りたい女と食べたい女』と、『付き合ってあげてもいいかな』はいずれも女性同士の恋愛を描く近年のweb連載漫画で、個人的な観測範囲では既存の百合漫画とは一線を画す広い支持を得ている作品だ。この2作品は、女性の同性愛者をとても対照的な描き方をしていると常々感じている。
『作りたい女と食べたい女』は、特定個人でない女性一般に対する性指向を描写しないが、レズビアンという単語を使う。作者はレズビアンの物語であることを明言している。
『付き合ってあげてもいいかな』は、特定個人でない女性一般に対する性指向を描写するが、レズビアンという単語は使わない。作者はレズビアンや同性愛という単語を意図的に使わないようにしていると明言している(この時の発言が危うくてちょっと炎上もしている)。
既存の百合作品は、特定個人でない女性一般に対する性指向をあまり描写しないし、レズビアンや同性愛者という単語も使わないものが大勢を占めていた。つまり同性愛を描く作品はあれど、女性の同性愛者やその在り方を描く作品はあまり多くなかったように思う。その点でこの2作品は対照的かつ、いずれも革新的だ(もちろん『LOVE MY LIFE』『おとなになっても』『ひとりみです』など様々な既存作品があるが、受容層・リーチ層の広さが抜きん出ているという意味で特異だ)。
実は前述した「①②は良いけど③が合わない人」の感覚は自分にもあるもので、特定の個人を好きになった時点で「好きになった人が同性だった」=「自分は同性愛者だ」とカテゴライズすることには強い違和感がある。
例えばある女の子が初めて恋をして相手が男の子だったときに「好きになった人が異性だった」=「自分は異性愛者だ」とは思ってほしくない。今後同性を好きになるかもしれないし変に決めつけずにいた方がいいよと言いたい。それと同様に、特定個人を好きになった時点で「自分は同性愛者だ」と自覚するのは早計に思えてしまうのだ。
しかし一方で「好きになった人がたまたま同性だった」という偶然性は「これは尊くて特別な運命の出会いなのであって、決して同性愛なんかじゃない」と同性愛および同性愛者を否定する文脈で使われやすい。また「レズビアン」「同性愛者」という単語を排除することは、現実社会でこれらが忌避され不可視化されている構図の再生産になりかねない問題を含んでいる。
これらの問題に対し、「好きになった人が同性だった」=「自分は同性愛者だ」とカテゴライズすることには一定の意義があるため、違和感はあれど一様に否定すべきないというのが現時点での自分の立場だ。もちろん、初めて直面した自分の恋心に名前をつけてカテゴライズすることが本人の拠り所になる場合があることも忘れてはならない。
最後に
『作りたい女と食べたい女』は女性が女性に恋をしてレズビアンを自認することを、『付き合ってあげてもいいかな』は女性が選択的に女性と恋愛することを、表現は違えどそれぞれ肯定して描く両輪のような作品だと感じている。
社会問題や人のデリケートな部分に踏み込んだ作品ゆえに背負う期待や向けられる批判も多くなり、作家さん個人への負担が心配な状況ではあるのだけれど、その環境を作っているいち読者であることを自覚をしながら行く末を見届けていきたい。