先週末、友人たちと「『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』をみんなで見て傷を舐め合う会」を開催した。『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』とは名作ゲーム『ドラゴンクエスト5』を原案として2019年に公開された3DCGアニメーション映画である。その内容から賛否両論を巻き起こし、原作ゲームに思い入れを持つファンに少なからず傷を残した作品だ。
集まったメンバーは以下の通り。
友人A:公開当時に映画館で見て、飲まないとやってらんね~!となった。
友人B:公開当時に映画館で見て、穏やかな性格が一変した。
友人C:唯一の映画未視聴の民。前評判がボロクソすぎて逆に楽しみ。
K:公開当時に映画館で見て、深刻なダメージを受けて泣いた。
私:公開当時に映画館で見て、低評価レビューを巡回する自傷行為に陥った。
未視聴の民がいるので最大のネタバレには気を付けつつ、それぞれの加点ポイントと減点ポイントとゲームの思い出を語り合いながら鑑賞した。個人的には結末が分かっているので比較的冷静に見ることができ、みんなの容赦ないツッコミの嵐に溜飲も下がりつつ、それでもやっぱりうーーーーーん………と何ともいえない空気で終了した。
その後はゲーム配信を流したり犬の散歩に出かけたりモンハン酒場と喫茶店をはしごしたりウマ娘のライブ映像を見たりして、鑑賞会なんて遠い昔のことのような気持ちで寝たのだが、一人になってからこの映画について考えたことを書いておきたい。
※以下、批判強めかつネタバレです!!!!!!!!!!!!!!!!
2019年の公開当初、私は前評判とネタバレを確認した上でKと映画館に行った。直後に書き連ねた感想は今もほとんど変わらなかったので、少し改訂して引用する。
ドラクエ映画観てきた。酷評や解説をいろいろ読んでハードルを地面に埋めた上で「思ってたよりアカン(でも一応いいところもあるよ)」という感想でした。
あと冒頭に幼少期をスキップするところで近くの席の少年が「よくわかんない!ちゃんとやってほしい!」と言って母親にシッされてて笑っちゃった。ほんとにそうだよね。
個人的に良かったところ
キャラデザが好き、よく動く3DCG、ゲレゲレの名前がゲレゲレ、人間くさいフローラ、天空の剣を抜くシーンがあること、ヘンリーとブオーンが再登場すること
良かったところを一応挙げたけど、それを吹き飛ばして余りある良くなさというか、ラストを知ってるからと油断してたらそれ以外も結構なかなか……
本作に限らず尺と演出のために原作のキャラクターや大事なエピソードを削ったり改変すること自体はある程度受け入れるけど、その先でうまく再構築できるかという大事なところの整合性がぐちゃぐちゃだと大変つらい。ラストがあれなら改変すべきじゃないし、改変するならあのラストにしちゃ駄目だった。
映像や動きはほんとすごく良かった。それだけにあのラストはゲーマーやゲーム制作者だけでなくこの作品に関わったCGクリエイターさんのことまで踏んでる気がしてしまった。
あらためて見ても、ずいぶん無茶をしている映画だ。親子三代に渡る冒険を2時間に納めるのが難しいのは仕方ないにしても、原作未プレイの観客を置き去りにする急展開の連続、重要エピソードや背景情報の省略など、構成がかなり雑だ。原作を知っていてもストーリーの理解が追い付かない上に「その改変、必要だった??」という違和感と疑問も積み上がっていくため、誰にとっても優しくない作りになっている。
そして有名な最後のちゃぶ台返し。映画の最後では、ラスボスから「ゲームの世界もキャラクターも所詮作り物でしかない」「大人になれ」という負のメッセージが発される。その後、主人公を通じて「作り物でしかないとしても、ゲームの世界でキャラクターたちと冒険した心躍る日々は今もずっと僕にとって本物だ」という愛のメッセージが語られる。
このメッセージ自体は悪いものではない。夕暮れ時のリビングでゲームに熱中する幼い主人公の背中を見ると、確かに自分と重なって熱いものがうっかり一瞬こみ上げる。
それなのにどうしてこれほど受け入れがたいかといえば、みんなが飲み込んだ上で楽しんでいることを突きつけて『どう?びっくりした?』をやっちゃうと、その後どんなに良いメッセージで上書きを試みても失った信頼を取り戻すのは難しいからだ。
「大人になれ」と言われたから怒っていると勘違いしているレビューを見かけることがあるが、そうじゃない。作り物だなんて分かった上でゲームを真剣に楽しんでいるし、作り物の世界に没頭して思い出を追体験できることを期待して映画を観に来たのに、「じゃーんこの世界は全部作り物でした! びっくりした? でも作り物だとしてもゲームって楽しいよね、冒険ってわくわくするよね! 大丈夫、君の冒険の思い出は本物だ! この映画でそれを肯定してあげるよ!」という大きなお世話で楽しみにしていた物語をひっくり返されたから怒っているんだ。そしてこの作品があることで本来期待したDQ5映画の可能性がほぼ永遠に失われることを嘆いているんだ。
もしもゲーム世界崩壊後の「現実」が実写だったら、まだマシだったかもしれない。でも「現実」がさっきまでと同じくCGなので、「結局この映画も主人公も作り物じゃないか」とより一層メタな気持ちにさせられてしまう。
あるいは本編が大幅な改変をせず原作に沿った内容だったら、まだマシだったかもしれない。観客は原作と全く異なるものを見せられているので「君の冒険の思い出は本物だ」と言われても「いや思い出と全然違ったが??」とより強い拒絶感を抱いてしまう。
これが当時の感想に書いた「ラストがあれなら改変すべきじゃないし、改変するならあのラストにしちゃ駄目だった」の意味だ。「もし〇〇ならもっとマシだっただろうか」と考えてしまったらもうおしまいだ。
正直なところ受け入れがたい部分を飲み込みさえすれば、DQ5のキャラクターたちが動いて喋っていること自体はやっぱり嬉しい。映画オリジナルのキャラデザはかなり好みだったし、原作と異なる冒険が展開されることによる新鮮な驚きもある。無断借用でさえなければ主人公の名前も小説版の大ファンである自分にとっては嬉しいサプライズだった。3DCGのクオリティはとても高いし、作り物の世界の裏には作っている人たちがいることも忘れてはいけない。
それでも「いろいろ事情があってこうなってしまったんだな、よく見ればいいところもあるじゃないか、文句を言うより楽しむ気持ちが大事だ」なんて大人になって受け入れてしまうよりも、「なんだよこれは!!!」と見るたび新鮮に怒り傷つく柔らかな心のままでありたいと思う。