週末、B嬢と大型書店で待ち合わせしてぐるぐる周って解散した。渡すものがあったほか、B嬢は仕事上あると良い資格の参考書を探したいとのことだった。勉強の意欲があってとても偉い。
書店をゆっくり見て周ったのは久々だ。欲しい本と出会うのも実際購入するのも、近年はほとんどweb上で完結してしまっている。人様の感想を見て気になった本とか、動画で紹介されていて読みたくなった本とか、あるいはAmazonで検索しサンプルとレビューが良かった本とか。それをポチっとすれば翌日にはポストに届く。いつどの本を買ったか記録され、自動で家計簿も出来上がる。つくづく便利だ。
例えば高校時代など本に飢えていた頃は自転車で散々遠回りして書店にいくつも寄って帰ったし、数年前までは仕事で毎月書店を何十件も周っていた。書店はかなり身近な存在だったのだけど、いつしか足が遠のいてしまっていた。
久々の書店にはいつも通り、面白そうなタイトルの本、装丁が目を引く本、自分が全く知らないジャンルの本がずらりと並んでいる。最近読んだ本、最近買ったけど読まなかった本、買ってないけど気になっている本、知り合いの知り合いが書いている本など、色々な本の話をしながら棚を巡った。
B嬢は「本屋に来ると知らない本がいっぱいあって嬉しい」と楽しそうだが、その横で私はメモリがオーバーフロー状態になっていた。数と情報量に圧倒されてしまい、脳が熱を帯びて目が滑る。本に囲まれていると、嬉しい気持ちと同じくらい「これだけある本の中で自分が一生のうちに読める本はあまりにも少ない、買った本すら家にたんまり積んであるというのに」と後ろ暗い気持ちがむくむくと顔を出す。
あと、本棚を眺めて面白そうと思った本を片っ端から買うとなるとどれだけお金があっても足りない事実を突きつけられる気もしてしまう。
もしかして、本屋さん、向いてないかも……。
こんな時に思い出すのは、『本は読めないものだから心配するな』(2013/管 啓次郎/左右社)の表題。全部を読めないことに臆する必要は全くない、本はそもそも巨大な世界の総体であり読めないものなのだ。
おまじないのように言い聞かせるほど近年一番の座右の書となったこの本は、Amazonで偶然出会った本だ。そういう幸運な偶然が書店ではいっそう起きやすいはずなので、こわがらずにもっと足を運んでもいいのかもしれない。
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関係ないけど書店併設の喫茶店の通りに面したカウンター席でお茶していたら、外から満面の笑みで近づいてきた人に窓ガラスをノックされた。何事かと思ったらB嬢と共通の大学時代の友人が家族連れで通りかかり、こちらに気づいてくれたのだった。この車社会で、しかも街中の喫茶店という数年に一度行くか行かないかの場所で、会うことある? おかげで後味の良い一日になった。