能登半島に行ってきた/被災地編

しお
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4月末に能登半島を訪れた。

2024年1月1日に発生した能登半島地震から約4ヶ月、復旧が進みつつあるものの復興にはまだ遠い時期だ。ボランティア志願でもない一般人がのこのこ踏み入ることに引け目を感じつつ、道路網の復旧や道の駅など一部施設が営業再開したことを踏まえて「自分用の水、食料、携帯トイレ等を持っていく」「危険を感じたり邪魔になりそうなら引き返す」「土産物と募金箱にはしっかりお金を使う」と決めて車で向かった。

周った順番は、七尾→穴水→能登→珠洲→輪島→羽咋。

通行止め区間を避けつつ、震源地で特に被害甚大だった奥能登を目指した。

現地の被害は思っていた以上に大きかった。ニュースやSNSで様子を見聞きしながらもどこか他人事だった地震被害が、壮絶な現実として目の前に広がっていた。わざわざ訪問しなくたって自分事として感じるべきだというのも、今更ちょっと現地を見たくらいで何が分かるんだというのも全部その通りで、それでも率直な今の記録として書いておきたい。自分が通った道沿いで見たことが中心なので、正確な状況を示すものではないことをご承知おきください。


七尾

  • 氷見から七尾に入ると震災の影響が濃く残り、崩れた縁石、塀、屋根瓦などが道端に目立つようになった。ほとんどの建物は一見無事に見えるが一部損壊~半壊している場合がかなり多いようで、ライフラインや仕入れの途絶等も相まって多くの店や施設は今なお休業している。

  • 能登のローカルチェーン「スーパーマーケットどんたく」和倉店に寄ると、被災地にあってなお驚くほど充実した品揃えで営業していた。通いたいスーパー。

  • 長野県民のソウルフード「ビタミンちくわ」の製造元、株式会社スギヨさんの看板を見かけた。復旧を心待ちにしている。

  • 能登島へも少し渡った。南の「能登島大橋」は通行できたが西の「ツインブリッジのと」は通行止め。ドライブインが自衛隊の支援車両基地になっていた。道の駅のとじま、のとじま水族館、ガラス美術館なども休業中。再開に備えて敷地を掃除するスタッフさんたちがいた。

  • 道の駅能登食祭市場および七尾駅前ショッピングセンターではテナントのほとんど休業していたが、屋台とキッチンカーで営業しており復興の風を感じた。どちらもホールでイベントを開催しており、和太鼓の演舞や地元を歌う歌手の声に多くの人が熱心に聞き入っていて、無関係なこちらが泣きそうになった。

穴水

  • のと里山海道は徳田大津IC~穴水ICまで下り線のみが通行可となっている。大きく段差になった縦ズレ、白線が繋がらない横ズレ、亀裂や崩壊などを避けて何度も蛇行しながらとにかく一車線分だけが確保されていて、奥能登に支援を届けるため突貫で処置したことが伺えた。数十kmに渡ってびっしり並ぶ道路規制機材の物量だけでも圧倒された。

  • のと鉄道は全線復旧しており、穴水駅では休日のまばらな利用客が出入りしていた。この短期間での復旧に頭が下がる。

  • 道路の亀裂や陥没、半壊~全壊の建物が目に留まる。またこの地域に限らないが、橋の両端の接合部にできた段差をアスファルトで埋めてスロープにしている箇所や、まだ通れない橋が一気に増えてきた。地震直後はちょっとした隣接地区でも行き来が困難だったと思われる。

能登

  • 往路は沿岸部、復路は内陸部を通った。全壊の建物を見かける頻度が増えてきた。無事な建物も多くは屋根をビニールシートで養生している。崩落して片側通行の道路や、傾いたまま役割を果たしている信号機なども多数ある。

  • 津波被害の爪痕が大きく、瓦礫が山積みになった漁港には陸に揚がって横転したままの漁船がいくつも残っていて、漁や海運への打撃の大きさが伺えた。

  • 恋路海岸にも様々なごみが流れ着き、名物であろう巨大な奇岩は一部が崩れて大きな岩が海岸沿いに転がっていた。それでもなお海岸の景観は美しい。

珠洲

  • 震源地となり特に被害の多かった地域。これまでと明らかに様相が異なり、全壊して瓦礫の山となってしまった建物が非常に多い。一見無事に見える建物にも「危険」と書かれた赤い紙が貼られており、無事な建物の方が少ない。通った中では中心地から少し東、内浦街道沿いの被害が特に大きく、道路にはみ出すように倒れたままの家屋を避けながら車が往来していた。

  • 飛び出したマンホールを多く見たのは見附島付近。調べると1mを超えるものもあるようで、隆起なのか周囲の沈下なのか、地形変動の大きさが分かる。瓦礫と違って撤去が難しく通行の妨げとなっていた。

  • 仮設住宅が立ち並ぶ広場や校庭、今まさに建設中の現場などが目立つようになった。まだまだ数が足りず避難所に身を寄せている人が多いようだ。

  • 道の駅すずなりは営業を再開して名産品や野菜の直売をおこなっており、災害支援の拠点にもなっていた。半島最北端にある道の駅狼煙も曜日限定で営業を再開しており、県外ナンバーの車やバイクがいくらか停まっていた。

  • 同人誌印刷でお馴染みのスズトウシャドウ印刷さんの前も通った。社屋と機材をなんとか修復して4月1日より営業再開されたことはほっとするニュースのひとつ。

  • 禄剛崎灯台近くの海沿いを歩いていると軽トラのおじいちゃんが「そこに見えてる岩肌が地震で盛り上がって出来たところだよ、前はあれほどじゃなかった」と教えてくれた。大変なところにお邪魔してしまって……と恐縮していると「いいよいいよ、なんとか落ち着いてきたし人も来てくれるようにならないとね」とのこと。優しさに救われた気持ちになる。

輪島

  • 人的被害、住家被害ともに最も多かった地域。火災によって一面が焦土となった海沿いの「朝市通り」周辺、ビルが横倒しになったままの交差点を始め、古き良き街並みが受けた甚大な被害が生々しく残っている。

  • 土砂崩れで埋まった家と道を一番見かけたのもこの地域。崖から零れ落ちるように崩れた家、土砂で埋まって身動きの取れない車、岩で塞がれて徒歩でさえ通れない道がいくつもあった。

  • 県の道路情報サイトを見る限り穴水地区とつながる南北道路以外は復旧しておらず陸の孤島状態となっていて、被災直後の救援は困難を極めたことが想像される。

  • 4月下旬からは路上テントで朝市を再開したり、プレハブで営業を始めた店がいくつもあったりと、少しずつ復興に向けて稼働し始めているようだ。

羽咋

  • 日程の都合上、志賀町をのと里山海道で通り抜けて羽咋市へ。ここまで南下すると地震の被害は比較的小さいように一見思えるが、道路の亀裂や半壊した建物はやはり複数見かけた。

  • 道の駅のと千里浜は観光客も多く駐車場が混雑するほど賑わっていた。飲食店、観光施設などは徐々に通常営業に戻りつつあるようで、観光可能な地域と被災地とのちょうど狭間という印象。

  • 久々に訪れた千里浜なぎさドライブウェイは静かで穏やかで、今回の訪問で唯一、今までと何も変わらないような心地になる場所だった。

全体を通して

  • 道路網がとにかく重要な地形において4ヶ月でここまで……!と思うほど隅々まで応急手当がなされており、土木系の作業量と技術力が凄まじい。

  • 逆に4ヶ月経ってもまだ……と思うほど、損壊した建物のほぼ全てがそのまま残っている。支援物資や仮設住宅が優先だし、所有者や権利者の確認も困難と見え、解体や撤去には長い時間が掛かりそう。

  • 多くの店や施設が休業したままで、再開しても客足が戻るには時間が掛かることは間違いなく、働き口や収入源を失った人たちに対してどのような支援なら届くのかと気に掛かる。

  • 大型スーパー、全国チェーン店などは再開しているところが比較的多く、大手ならではの物流と体力がこういうとき頼もしい。

  • 土木建設や自衛隊ばかりでなく警察車両も非常に多く走っていた。遠方の他県警も多く、地域を超えた協力体制が敷かれている。

  • 能登半島地震で亡くなった方は2024年4月30日時点で245名、行方不明者は3名、負傷者は1196名と発表されている。一人一人の人生と遺族の方を思えば決して数字では計れないことを承知の上で、それでも損害を受けた建物の多さと土砂崩れの数々を見るにつけ、数字から受ける印象よりもはるかに大きな被害規模だった。


家に帰ってきてから、波だった気持ちがずっと収まらないでいる。潰れた家をたくさん見た。生活や人生や大事な何かを失った人が大勢いる。帰る家のある自分が何の大義もなく土足で踏み入ってしまったことへの後ろめたさが付きまとう。大きな災害に遭わず生きていることが単なる偶然だと思い知った。

この気持ちをボランティアという形で現地に還元するのがあるべき形なのだろうけれど、心身ともに健康でなく何か役立つ技能も持たない人間が装備を整えてちょろっと現地入りしたところで自己満足以外の何になるのだ……とも思ってしまい、そんな自分にも確実に出来ることはやはり金銭面の支援なので義援金を送った。今後も継続的に送るし、ビタミンちくわが復活したら主食にするし、いずれまた現地に足を運びたい。

あらためて、地震被害に遭われた方へ心よりお見舞い申し上げます。どうか心に、生活に、少しでも早く平穏が戻りますよう願っています。

@m_shiroh
140文字以上の文章を書く練習をしています。