本と読書について考える機会があり、自分にとって大切な一冊である『本は読めないものだから心配するな』を誰かに紹介したくなったので書きます。

昔は読書が当たり前に好きだったのに、いつの間にか本が読めなくなった。目が滑るし、頭に入らないし、集中力が続かず読み切れない。長い間それを心苦しく思っていた。
コロナ禍に入ったばかりの2024年5月、鬱々としていた時に出会ったのが『本は読めないものだから心配するな』という本だ。筆者は明治大学教授で比較文学者かつ詩人の管啓次郎(すが・けいじろう)氏。左右社から2009年に出版された単行本で、読書論について書かれている。
web検索で偶然見かけて、その力強いタイトルに惹かれた。著者も内容も全然知らないのに「今、これを読まなければ」という衝動に駆られた。当時品薄のためか大手通販サイトでは価格が高騰しており、遠い書店のwebサイトで新装版を見つけて取り寄せた。
読み始めてすぐに、この本とは真剣に向き合いたいという気持ちが湧いてきた。教科書以外の本に初めてマーカーを引き、知らない言葉を調べて注釈を書き入れ、特に感銘を受けた場所には付箋を貼り、一週間以上かけて読んだ。それは自分にとって全く新しい読書体験だった。
この本は、筆者が1998年から2000年代にかけて様々な雑誌や機関誌へ寄稿した原稿の総集編+書き下ろしの構成となっている。一言でいえば「本」と「読書」にまつわるエッセイ集であるが、同時にブックガイドでもあり、紀行文でもあり、哲学書でもあるような、不思議な読み味の本だ。
「本」と「読書」を幹として筆者の思索が自由に枝葉を伸ばし、古今東西の名著の引用や旅の記憶が交錯する。寄稿文集ということも手伝って、ページをめくるごとに話題は目まぐるしく移り変わっていく。しかし揺るぎない思想とモダンな語り口は一貫しているので違和感なく通読できるし、ふと開いた箇所に目を落とすだけでも何かしらの発見があるのが魅力だ。全ての見開きの肩にはその見開き内から選ばれた含蓄あるセンテンスが小見出しとして記載されており、このことからも密度の高さが伺える。
この本に触れる感覚は、文献の山から資料を一瞬で選びとる老練な教授の雑談を聞いているようだ。あるいは車窓の眺めがトンネルを抜ける度にがらりと変わる列車に乗って、遠く知らない土地を旅するようだ。
おそらく読む人を選ぶだろう。万人におすすめはできない。しかし私にとってこの本は、今後の人生の指針となり座右の書となる、紛れもない名著である。
……そんな風に自尊心を優しく満たしてくれる一冊だ。
具体的な内容を紹介していなかったので、少しだけ触れよう。この本に通底する考え方は、以下の引用に集約される。
本に「冊」という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり(中略)、本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。
-管 啓次郎(2009年)『本は読めないものだから心配するな』 左右社
前後の文脈も含めて拙い理解で要約すると、著者の考え方は次のようなものだ。
世界には圧倒的な未知の領域が広がっており、人ひとりが短い一生を掛けても到底それを把握することはできない。それでも無知に抵抗して大海に飛び込むように、人は本を読む。世界と対峙することで「何か」を掴めるかもしれない、それが何かは分からなくても、期待と希望を持って人は本を読む。
本とはそれ単体で完結するものではない。無限に広がる世界にアクセスするための、無数にある端緒のひとつであり、それが本という形をしているに過ぎない。すべての本と本、ページとページは世界を通じて相互につながっており、それを「読み終える」ことは不可能だ。
そして本を通じて垣間見えた未知の領域は膨大すぎて、我々は全て記憶しておくことができない。記憶しておくことはできないが、わずかに「何か」を得ることができる。それが時を経て編まれて「テクスト」となり、我々の未来を形作っていく。
本は読めないものだし、本の内容は忘れるものだ。しかしその経験は必ず未来へとつながっていく。だから本を読めないことも忘れてしまうことも、全く心配しなくていい。ただ希望を持って読めばいい。
―― これは本を読む人、本を読めない人、そして本を通じて我々が相対する広大な世界へのエールだ。
この考え方は、ピエール・バイヤール(2008)『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房 にも通じるところがある。
本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだ――
(中略)テクストの細部にひきずられて自分を見失うことなく、その書物の位置づけを大づかみに捉える力こそ、「教養」の正体なのだ。そのコツさえ押さえれば、とっさのコメントも、レポートや小論文も、もう怖くない!すべての読書家必携の快著。
『読んでいない本について堂々と語る方法』の主旨は、「本を読むということは定義できないし、忘れてしまうことだってある。しかし本自体のコンテクストさえ捉えていれば、読まなくてもその本について語ることができるだろう」。
『本は読めないものだから心配するな』の主旨は、「本は読むことができないし、内容も忘れてしまうものだ。しかし本から得られたテクストだけは残るので無意味なんてことはない、気にせずどんどん読もう」。
乱暴に意訳するとこんな感じだろうか。両者の主張は表裏一体、縦糸と横糸のように重なって、本を読むことや読んでも忘れてしまうことを肯定してくれる。本を読めないことを重く考えすぎてしまう人の心を、軽やかに掬い上げてくれるはずだ。
『本は読めないものだから心配するな』は、2021年に筑摩書房で文庫化されて入手しやすくなった。
収録原稿の多くは2000年代初頭に掛かれたものなので、今の感覚で読むと少し説教じみていたり、ちょっと思想が強いと思うところも正直ある。しかし、本への向き合い方に迷っている読者にとってはそれが光に見えることがあるかもしれない。
またインターネットで個人がコンテンツを発信し始めた時代とも重なるため、その頃の空気感や展望について筆者の期待感が込められた文章も散見される。インターネットが隅々まで普及した今の時代だからこそ、本書を読む意義があるだろう。
時代性には触れたものの、普遍的な視座と洒落た言葉選びは古さを感じさせない。本を通じて人と世界を眼差す視線は、批評的でありながらもあたたかく愛に満ちている。読後感は草原に寝転んで空を仰ぐように爽やかで、鞄に一冊入れて野山へ海辺へと歩き出したくなるものだった。
この本はきっとこれからも長く読み継がれることだろう。
最後に、本の序盤に登場する好きな一節を紹介したい。
いつか満月の夜、不眠と焦燥に苦しむきみが本を読めないこと読んでも何も残らないことを嘆くはめになったら、このことばを思い出してくれ。
本は読めないものだから心配するな。
-管 啓次郎(2009年)『本は読めないものだから心配するな』 左右社
この言葉はBUMP OF CHICKENの「ダイヤモンド」と並んで、生きていく上で大切なお守りになった。
上手に唄えなくていいさ いつか旅に出るその時は
迷わずこの唄をリュックに詰めて行ってくれ
- BUMP OF CHICKEN 「ダイヤモンド」
以下は各版のAmazonリンク。文庫版が出たためか、初版と新装版も中古が一般的な価格に落ち着いている。どのサイトを見ても詩的なレビューが多く並んでいることがこの本の特性を反映している。
管 啓次郎(2009年)『本は読めないものだから心配するな』左右社