ヴィーガンを批判する人が時々「奴らは動物のことしか頭にない、植物だって生きているのに殺していいのか? ダブルスタンダードだ」と言うことがある。しかし自分も含めて非ヴィーガンの方がよほどダブスタだろうと常々思っているのでその話をしたい。
標準的な非ヴィーガンの日本人を想定したとき、「殺すことに抵抗を感じるか否か」と「実際に食べるか否か」の2軸で動植物を以下のように大別できる。
A:殺すことに抵抗があり、食べない(例:犬、猫などの動物)
B:殺すことに抵抗があるが、食べる(例:牛、豚などの動物)
C:殺すことに抵抗がなく、食べる(例:キャベツ、リンゴなどの植物)
AとBの間に馬やイルカがいて、BとCの間に鳥や魚介類がいるイメージだ。宗教上牛が食べられないとか魚をシメるのに何の抵抗もないとか人によって多少変わるが、概ねA~Cのグラデーションと考えてよいだろう。なお4象限で考えれば「D:殺すことに抵抗がなく、食べない(例:害虫など)」が存在するが、また別の議論となるため今回は除外する。
これらを食べるか否かについて、非ヴィーガンは A┃B C に線を引くが、ヴィーガンは A B┃C に線を引く。間にあるのが「B:殺すことに抵抗があるが、食べる(例:牛、豚などの動物)」で、ここが争点になりがちだ。
Bの牛や豚をもし自らの手で殺すとしたら、多くの人は強い抵抗を感じるだろう。少なくともCのようにキャベツを収穫したり、人参を抜いたり、その辺の草花を手折るのとは全く違う感情があるはずだ。「植物だって生きているのに」と言う人も、植物と動物の間には「殺すことに抵抗を感じるか否か」の明確な境界線を持っているのではないか。
しかし自らの手で殺すことには抵抗を感じながら、非ヴィーガンは牛や豚を好んで食べる。殺すことの負担を屠殺や狩猟を生業にする人に外注して、きれいな肉になったあとのおいしい部分だけを食べているといういびつな現状がそこにある。
また、AとBは殺すことに抵抗がある点で同じなのに「あの国では犬を食べるらしい、信じられない、野蛮だ」と嫌悪感をあらわにする人がいる。「クジラ食は我が国の文化だ、他国が口を出すな」と言ってみたりもする。AとBの間の線引きは時代や地域や文化に依存しておりとても危うく恣意的なものだ。
このように「殺すことに抵抗を感じるか否か」と「実際に食べるか否か」の二つの基準を持つ非ヴィーガンの方こそ文字通りダブルスタンダードだと言える。少なくとも両者が一致しているヴィーガンの線引きを嗤える立場ではないだろう。
一方、このいびつな構図は必ずしも是正しなければならないわけではないとも思う。現代社会で人が食糧を得て生きるのに必要な分業がうまく機能している結果でもあるので、頂く命と携わる人に感謝を忘れなければお肉をおいしく食べてもいいよね、…という非ヴィーガンとしての釈明の気持ちはある。
ただ、そのいびつさを自覚して真摯に引き受けることまで放棄してはいけない。