吾輩には一人称がない

しお
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公開:2023/12/20

日本語には誰でもいつでもニュートラルに使える一人称がなくて不便だよね、という話を同年代の友人たちとした。比較的汎用性が高いのは「わたし」だが、男性にとってはあらたまった印象が強く、女性にとっても全員が疑義なく使えるとは限らない。一人称は幼い頃からまとわりつき、多くの人にとって切っても切れない問題のひとつだろう。

※「わたし」「私」「ワタシ」など表記の違いで全く印象が変わることは承知の上で、この記事内ではひらがな表記に統一します。小説作品から引用する「僕」のみ漢字表記します。

多分に漏れず自分自身も一人称に悩んできた。「わたし」はせいぜい作文くらいでしか使えず、自分を名前呼びする選択肢もなく、「ぼく」は気取りすぎな気もして、小学5年生くらいまでは一人称を使わないようにごまかして生きてきた。さすがに不便を感じた小学6年生の頃におそるおそる「うち」を使い始め、関西弁で話せる友人との会話では今もそれを使うことがあるがこれも消去法だ。

初めて「わたし」を前向きに使い始めたのは、中学3年生のとき深く心酔していたテキストサイトに憧れて始めた日記の中だ。サイトの管理人さんは当時20代前半くらいの女性であり、今思えば随分若いが文章も考え方も洗練されていて、その大人びた雰囲気に近づきたくて私は日記の中で「わたし」を自称するようになった。あくまでも日記の中のことで、当時口に出すことはなかったと思う。

その管理人さんが紹介していた文芸小説『僕はかぐや姫』を初めて図書館で見つけたのは高校1年生の時だった。小説の主人公は文芸部に所属する17歳の女子高校生。傷つきやすく無垢な自意識を抱え、その表象として自らを「僕」と称することで身を守っていた彼女が、いくつかの人間関係の移ろいを経てやがて「わたし」という一人称を纏い始める物語だ。それだけ聞けば子供だった自分を卒業して大人への階段を登ったポジティブな演出にも見えるが、何にも属さず誰にも解釈を許さない高潔な魂そのままで生きていくことの難しさや、大人になることは悲哀や喪失と不可分であることを突き付ける描写がこの小説の読後感を少し苦いものにしており、当時の私は同年代の主人公と一緒に傷ついた。

「わたし」はやわらかな毛布のようなもので、傷つくことから守ってくれるがその向こうにある本質を覆い隠してしまう。

あるいは「わたし」はビジネススーツのようなもので、それを着ていれば社会人としてまずまず扱ってもらえるが着ている間の自分はまるで自分ではないみたいだ。

今まで出会ってきた人の中には「おれ」や「おいら」が似合う女性が何人もいるし、うんと年上の女性が自然に「ぼく」を使っていたりもした。彼女たち自身がどのような経緯でその一人称に落ち着いたのかは分からないが、大勢に迎合せず自分に一番しっくりくるものを使い続けているのであればそれを羨ましく思う。友人の友人には「わがはい」を使う人がいるそうで、まるで名前がまだない猫のようで素晴らしい。

男性と一人称の話をしたことはあまり多くはないが、思春期に「ぼく」から「おれ」に変えるタイミングや、大人になってからはシーンによって「わたし」とその他を使い分けるなど、また違った苦労があるだろう。もちろんその全てがしっくり馴染まないままに使っている人もいるだろう。

自分にとって一人称は消去法と妥協の結果でしか選ぶことができないもので、それは今も昔も変わらない。それでも大学、バイト、就職等を経て環境が変わるにつれ、いつのまにか恥ずかしさやためらいを抜きにただ便利な道具として「わたし」を口にできるようになった。なってしまった。

今は『僕はかぐや姫』の主人公と昔に自分に合わせる顔がなく、なかなか読み返せずにいる。

@m_shiroh
140文字以上の文章を書く練習をしています。自己紹介代わりの記事リンク集はこちら→ sizu.me/m_shiroh/posts/kk0dbd40xv71