共感のことを信じていない。共感なんてないと思っている、あんなのは幻だ。
私に共感力とかいうのがないからそう思うのだろうか。
共感性羞恥という言葉がある。見ていてこちらも恥ずかしくなる、というやつ。あれだってそもそも見ている対象が羞恥などを本当に感じているとは限らない。共感じゃなくて自己投影とかに近いんじゃないか。逆に対象が恥ずかしく感じていることでも大したことないとか面白いとか思うことだってあるんじゃないか。
共感的態度を取る。「〜〜で辛かったの」と言われた時に「それはお辛かったですね」と言う。すると「わかってくれて嬉しい」と返ってくる。そのときこちらがわかったのは相手が辛い思いをしたと言うことのみだ。辛い感覚なんてわからない。(仮に聞いた体験を当てはめて自分も辛く感じるだろうと思ったとして、それはこちらの辛さであって相手の感覚をコピーできたわけではない。)
何かを話した時に、相手がどんなに親身であっても、まるで自分のことのように心を痛めたり、あるいは喜んでくれたりしても同じことだ。自分の感覚は自分の感覚でしかない。自分が体験して得た感覚と、その話を聞いて得た感覚は同一であり得ない。
同じ気持ちを感じたり理解するなんて無理で、せいぜい推測でしかないんじゃないかと思う。それにどんな意味があるんだろう。どうして共感をしたり、されたりすることを欲する人がいるんだろう。
近づきたいのかもしれない。?
似た感覚を持つことを確かめて、それは似た価値観を持つということに近いのかもしれない。似た価値観で集まれば集団での意思決定がスムーズで、生存しやすくなるのかな。わからない。
でも、そうだとしても、あたかも通じ合えるという振る舞いをする人々のことがわからない。人の気持ちというのは、寄り添ってよく考えたらわかるなんて。そんなことはあり得ないけど、だからこそ言葉があって表情があるのだと言われたほうが理解の余地がある。絶対に分かり合えない、共感なんてしようもないのだから、コミニュケーションをとって、
とって?それでどうするんだ。
分かった気になるのが要点なのだろうか。たしかに群れとして生きる上では良いのだろう。分かった気になる、分かられた気になる。分かり合える人間は安全な気がする?
群れを強固にする、そして、群れにとっての不穏分子を排斥するための機能なんじゃないか。人の気持ちがわからないとか宣うものは確かに不穏分子でしかない。人の痛みがわからないように見えると、人を傷つけるように見えることもあるのかも。被害妄想が入っているかもしれない。
結局のところ共感は推測でしかなく、しかし、ただの推測を通じ合いだと錯覚して結束を強めることが大事なのかも。集団幻覚。そこに共感なんてないとか言うやつが出てくると和が乱れるから、何をしでかすかわからないから、だから共感できないやつはだめなんだ。わかんないよそんなの。
ひとりぼっちを拗らせているので、もう集団なんて無理だ。友人だって作れない。そんな予定ないけど。人間関係がライフラインに直結するとかの時代、地域でなくて良かったとおもう。