最近雨が多いな、と思うと同時に季節の移り変わりを感じる。季節って、そういえばちょっと前はこうじゃなかったなあと、後になってから特徴を捉えられるものだ。それとは違って一度だけ明確に季節の境目を感じたこともあって、夏の終わりくらいにちょっとしたひんやりした風を肌に受けたときに、ここから秋になっていくんだと感じたのだ。そんな思い出。
私自身、内向的なのはなんとなく自覚している。実際他から見てどうなのかはともあれ、レクリエーションとか、四人以上で何かすることそのものをやりたいと強く望むことはほとんど無い。苦手というか選択肢が無い。コミュニケーションそのものを楽しむような人格ではないと自覚しては居るけれど、不思議なことにコミュニケーションの権化とも言える「英語」という分野(中高にあるものとしての教科、学問、あるいはそれをつかうこと)への静かな向上心を持ち続けている。趣味の絵やギターのように、はっきりと表だってくるような情熱を注いでいるような気はしないけど、確かに向上心がある。英語以外の趣味は、何も無いところから気がつくと湧き上がってきたある種抽象的寄りの好きの気持ちで続けているのだけれど、よく考えてみれば英語に関する情熱の出所はかなりはっきりしているというか、結構因果関係がはっきりしているというか、地に足がついていると思う。たぶん。
この文であげた三つの趣味に関して、やはり私が向上心をもっているものは絶え間なく、されど不快にならない値の範囲で、ほどよいフラストレーションを私が感じるものなのだろうと思う。
絵ならこのキャラクターがこんなことをしているところをみてみたい、けれど今の画力では描けない!という不満から来てるし(それ故固定的・平面的な美しさをもつイラストレーションや話のダイナミックさを重視しがちな漫画よりも動きや生命感に注視しがちなアニメーターの絵を好みがち)、ギターなら私もこんなかっこいいギターの音を出してみたい!といった不満から来ている。
で、英語に関して言えば、この許容可能なフラストレーションぎりぎりなのである。絵もギターも不満を解決する過程ほぼすべてを楽しめているのだが、英語に関しては微妙な訳で、学習していく中で知らない表現にであっておもしれーっとなるくらいでしかまともに楽しい思いをすることがない。無いと言ったら嘘だけど他の趣味より圧倒的に過程の楽しみは少ない。
英語に対してこうなったのは案外最近かつ突発的。中学に入ってインターネットを手にした私は国内海外産問わず様々なゲームに出会うようになった。そんな中で、面白そうだと思ったもののなかにかなりの量で日本語非対応の作品、または非公式翻訳パッチが出されている程度のものが含まれるようになり、自分の生きる世界の限界というか、言語の壁への強い敗北感を覚えるようになった。
「dog」という英単語は日本語訳すれば「犬」だけれど、「犬」と訳された英語には薄い半透明の膜が覆い被さっているというか。日本語としての「犬」には犬という漢字や「i」「nu」と言う音から湧き出てくる筆舌に尽くしがたい感情、イメージがあるわけで、英語にもまた同じようにdogと言う文字列や「dɔ'ːg」という音からこれまた湧き出てくる筆舌に尽くしがたい感情がある…んじゃない?
海外産ゲームであるUNDERTALEはファンの間でキャラクターの一人称や固有名詞のカタカナへの変換をどうするか、どれが良いかは議論の的になっている、気がする。そういったときに日本語訳という半透明の膜の存在を感じてしまうわけで。
また、私は中学生活も後半に差し掛かるにつれて、これまた海外産コンテンツのSouth Parkと出会いを果たす。ブラックジョークや下ネタが主体のこの作品から、本当の英語の世界というか、楽しみ方というか、教科書の英語なんて氷山の一角でしかない事実を理解することとなる。風刺や下ネタを含む英語の世界はそもそも教科書に無い独特のフランクな表現で出来ていて、風刺そのものはもちろんそういった単語もすべて文化を理解しなくてはいけない。そしてそれらは私が日本語で笑ってしまう内容で、意味がわかるとしょーもないなあと笑ってしまうし、それを理解できた瞬間が楽しい。教材はあんまり良くないのだけど。
South Park 関連を漁る中でゲームを日本語訳して解説兼実況動画を投稿している私の好きなYouTuberと出会いを果たすのだけれど、それもまた大きかった。彼について書くのはまた今度にするが、彼と出会ったことで「ああ、英語って日本語の中で見つけられなかった面白いものを楽しむためにあるんだ!」と、英語の存在価値が腑に落ちた。この、日本語の範囲で楽しめなかったものを楽しむことへの熱意やフラストレーションがより高まったのが高校一年生の時の留学なのだけれどこれもまた別の機会で書くことにする。
まあでもこの話、私はゲームがしたいから英語をやってるんですよ、という一言で片付いてしまうね。人がお金が好きな理由に似ているかもしれない。お金そのものは多くの場合汚いし、食べることも出来ないし、要はそのものに価値はないけど、美しいものやおいしいものを手に入れるのにほぼ必ずと言っていいほど使うことが出来る。パブロフの犬じゃないかもだけど、欲しいものじゃなくて欲しいものがあらわれる兆候に反応しているのかも。実際おいしい思いをするのは英語を使うことができたときなので、そこが過程まで完全に愉しんでいる他の趣味との違いがあるんじゃないかな。
年齢を重ねるにつれ大きなジャンルに手を出し始めるようになったのも言語での世界の広がり方に味を占めたから…だと思う。
pixivで全然知らない作品の絵には何にも面白さを感じないけど、理解すると途端に面白くなるアレ。全く知らない人物が全く知らない用語を喋って、それをなんだかあれこれして他のキャラに突っ込みを入れられている。で、作品を履修するとそれが全部理解できるってわけで。これはすごく言語の理解に似ている気がする。用語や文化を知って共通に笑えるネタ、考察するネタ、そういうものを得るのって、言語学習での世界の広がり方に似てるんじゃないかなって思います。
ここまで書いてきた肝心の私の英語の実力はというと、自分で言うのもなんだが旅行くらいでは全く困らないくらいの力量はある。単語を調べるくらいのツールがあれば完璧だ。若干聞き取りが苦手だけど執念深く聞き返して確認し続ければどうにかなる(そういう心持ち・覇気がないと伝えるもんも伝えられないんだろう)。
いつかオーストラリアにガチ観光で行きたいけど、海外旅行において肝心な行くまでの手続きとかその他諸々の計画力というものがまるでない。力も弱いから物持てないし背が足りなくて飛行機の上の物置から荷物を下ろすのもいつも同行者に頼りっきり。言語問題は私が何とかするのでその他のことを丸投げにしてもいい人、どうか私を海外旅行に連れて行ってください。