停止

machi_yoi
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 取り残されているな、と思う。どこで置いていかれてしまったのだろうか。みんなどんどん大人になっていく。かといって、私が追いついたところで良いことなんてあるのだろうか、とも思う。

 中学の時に、Twitterで周りのオタク仲間がどんどんおしゃれになって、結婚・出産して誰も遊んでくれなくなった、というブログかなんかを読んだ。気がついたら誰も遊んでくれなくなっただけならまだしも、筆者だけの容姿が変わらないが故にハブられていく、という体験まで記してあって、自分だけ取り残されてしまうということと、オタクであることは「女」からの逃亡になんてできない、という二つの現実に直面してしまった。インターネットさえ見ていなければあんな物を見て傷つかなかっただろうと一瞬思うけど、そんな現実遅かれ早かれ直面するだろうし、むしろ他人の体験談、対岸の火事としてその事実と出会っておいて良かっただろうとは感じる。今でこそ自分の着たい服に合わないから、色味に魅力を感じるようになったから、この二つの理由で化粧をするようになって女性として社会に溶け込めてはいる。けれどもコレは多分あんまり一般的な理由での「垢抜け」の開始理由で無いから、「垢抜け」しようとしているという結果だけ周りとそろっているからその部分で社会に合わせられているだけなのだから、首の皮一枚つながったような気持ちが抜けない。

 人より時間が進んでいる自覚はあった。小学校に入学するときには、そこで習う漢字の7割弱は読めていたし、6歳にして絵本を一冊考えられる能力はあったし、人より多くのことを知っている自信はあった。だけど進み具合が中途半端だから、自分より幼い周りを許容することができなかった。そのうちに、だいたい小学校六年生くらいで私の時間は止まってしまったみたいで気がついたら周りが私より先に進んでいた。 

 町を歩けば同年代くらいの女の子は今にしてみれば少々不格好だけどお化粧をしていたし、恋愛漫画やラブコメをアニメ非アニメ問わずみんな見ていた。ポケモンXYの最終回のキスシーンが私は大っ嫌いだったけど、私以外の子はそこを好きだと言った。私がいたのは女子校だったから彼氏がいる人はめったにいなかったけど、そういう物を愛するくらい大人にはなっていたのだ。

 小学校低学年の時、同学年の女の子になじめなかった。同年代の同性にしては引くほどポケモンが好きだったし、虫も怪獣も大好きだったから、趣味が全く噛み合わなかった。だから登下校はいつも男の子の集まりと帰っていた。話が合うと納得すると男の子達は私を快く仲間に入れてくれた。運動は得意じゃ無いから球技や鬼ごっこの集まりには行かなかったけど、私以外全員男子のメンバーで校庭とか公園での虫探しに参加したり3DSで遊ぶなどした。休み時間なんかは外で捕まえたゴマダラカミキリやらショウリョウバッタやらを見せてくれた。持っても良いというのでゴマダラカミキリを持ってみた。手で側面を持ってみると奇妙な鳴き声がした。聞くにそれは正確には鳴き声では無く、抵抗するときに体を擦って出している音なのだという。

 そうこうしているうちに小学校を卒業し、当時のクラスメイトとも疎遠になってしまった。異性は趣味の合う友達では無く、女の子にとって警戒すべき存在になった。私はそれが悔しかったし、許せなかった。でも、世の中はそういう風にできている。そうしないと危ないことが多いのは確かだ。私は本当に世の中の当たり前についていけていない。

 生きていて良いことが無い、なんてのは嘘だ。やっぱり良いことはある。でもその良いことから得られるエネルギーが私にとって疲れること、嫌なこと、我慢することで消費するエネルギーと明らかに釣り合わない。なんといっても私は制御できないほどわがままだからだ。自覚してはいるけど、自覚したところである程度振る舞いはマシになるのだろうけど、何も解決にならない。多くの人が死にたい、逃げたい、消えたいと願ってしまう「悪口を言われた」、「理不尽に怒られた」、「家族・友達・恋人に殴られた」、「無視された」、とかそれ以前のもので強いストレスを感じて仕方が無い。これらは誰かに助けてもらうとか、環境を改善するとか難しさはあるのだろうけれど決して不可能なことではない。私の場合もっと人として生きていく上で必要不可欠なもの、物理法則としてこれ以上どうしようもならないものに辛さを感じてしまう。例えば「交通機関で目的地に着くまで待てない」、とか「歯磨きしたくない」とか、「食事したくない」とか「服着たくない」とか「信号が待てない」とか「順番守りたくない」とかもうそのレベルである。調子が良いときはあーめんどくせーなーで済ませられるけど基本四六時中ストレスを感じてしまう。いままでなんとかその状況を乗り越えてこれたのは、幼少期にわがままを言うもしくは言っている他人を見て「こういうことをすると大人達がめんどうなことになるから辞めとこ」という妥協という名の封印のお札の存在のおかげなのだ。やってはいけないことだと解っているからやらない。けれども私の本心自体が変わっているわけではないから、もうどうしようもならない子供のままなのだ。

 さらに言うと自分から話しかけたり語りかけたりするくせに人から話しかけられるのが大っ嫌いだ。自分から作り上げたコミュニティ、友達になろうと思って話しかけた人から話しかけられるのは好き。でもおまけで付いてきたような人間関係、自分がコミュニケーションの相手にしたいと思っていない人間から話しかけられるのは本当に本当に嫌いなのだ。コミュニケーションを取りたくない。滅茶苦茶ストレス。でも私からは話し散らかしたい。

 コレの本当に厄介な所は地域の人、クラスメイトはともかく親戚や産みの親までがっつり嫌悪の範囲に入っているところ。知り合いの過程で親に推しのことや腐女子趣味が知れ渡っていることを聞くとぞっとしてしまう。もう9年近く腐女子をやっているけど、未だに親類の前ではアニメと漫画が好きなグロいのが全然ダメな女の子で通してる。本当の自分隠してるオレカッケーとかではなく真剣に自分のテリトリーに血がつながっているからとかいう理由で誰も通したくないからだ。

 自分だけが子供の話に戻すけど、私は洒落にならないレベルで「子供を持っている」人たちのことを別の生き物として見ている。「そういうことをした人」として見ていないと言ったら嘘になるけど、家庭という責任を持って生きているという状況が、私にとって異質で仕方が無い。すべての思考に「家庭があるから、子供が居るから」という責任感が足枷のようについてまわる。考えただけでぞわぞわする。それが責任として正しい行動に決まっているけど私が納得するかどうかは別問題なわけで。でも決して性に奔放でありたいのかと言えばそうでは無い。そこまで私は大人になっていない。そんなところにすらたどり着いていない。

 まだずっと、一生、子供のまま。公園でゲームをする集まりに呼ばれるのを待っている。し、今でも私は誰かがゴマダラカミキリを捕まえて見せに来てくれるのを待っている。

@machi_yoi
ここにある考えはいつかアップデートされるのだろうけど。