madobe_hiki
·

 写真と何枚かの紙をテーブルの上に置いて、彼は言った。幸せにしてほしい人がいるんだ。

「は?」

 状況と発言があまりにも乖離している。ドラマや映画なんかで、こういうふうに喫茶店のボックス席で向かい合って、人が人にとある人間の資料を渡しているとき、役者のセリフの相場は決まっている。殺してほしい人がいる、だ。もっとも、実際に暗殺の依頼をする人間はこんな駅前の喫茶店なんかは使わない。いくら客が少ないからと言ってもリスクがありすぎるからだ。というか、客が少ない分一人ひとりの会話の内容が筒抜けになって良くない。

 気の抜けた声を上げた私に、小暮と名乗った男は、聞こえなかった? と静かに笑いながら言った。私より年下、ひょっとすれば大学生にも見える見た目に反して、奇妙な威圧感のある青年だった。まあ、私みたいな人間を見つけて、アポイントメントを取るような人間が、普通の好青年であるはずは確かにないのだけれど。

「聞こえたわ」

「うん。じゃあ、そういうことで」

「そういうことで、じゃなくて」

 ため息をつきながら煙草をくわえ、火をつける。店選びのセンスはないけれど、喫煙席があるところだけは唯一評価できる。ところが、小暮は私が煙草をくわえた瞬間に急に顔をしかめた。

「煙草、やめてほしいんだけど」

「苦手?」

「愛くんが嫌いだから」

 少し考えて、愛くん、というのが先ほど渡された資料の男であることに気づく。確かそんな感じの名前だった。もう一度資料に目を落とす。瀬名愛。ああ、やっぱりそうだ。だからといって、答えにはなっていない。なんで愛くんとやらが煙草が嫌いだからという理由で、私が煙草をやめなくちゃいけないのだ。

 私の不可解そうな顔に、小暮は特になにかを言うでもなく机の上のメロンクリームソーダを啜った。彼の雰囲気に似つかわしくない幼い色をした飲み物に、頭が混乱する。なんでも屋、なんでいう変な職業をやっているからには、人よりはさまざまなことを経験しているつもりだけれど、私もまだまだ未熟だということらしい。

 私の視線に気づいた小暮は、なに、と首を傾げた。

「説明が必要?」

「当たり前でしょ。もう少し具体的な説明をちょうだい」

 具体的。そう、彼の発言には具体性が欠如している。この男が何者なのか。幸せにしてほしいとは実際どういうことなのか。殺しの依頼だって、もう少し具体的に説明される。

 小暮は呆れたようにため息をつくと、溶けかけたアイスクリームをぐるぐるとメロンソーダの中でかき混ぜながら言った。

「別になんでもいいよ。でも一番手っ取り早いのはまあ、結婚かな」

「結婚」

「うん、そう。一般的な幸せって、結婚のことらしいし」

 俺にはわかんないけどね、と小暮が淡々と言う。なるほど、少し状況が掴めてきた。どうやら彼の言うところの幸せ、とは別に死とかセックスの暗喩ではなく、文字通りの意味らしい。この瀬名愛という男と結婚して、幸せな生活を彼に送らせてほしい、と、そういうことらしい。

「いい趣味してるわね。幸せの最高潮になったところで殺そうとか、そういう話?」

 実際、そういう依頼の話は聞いたことがある。自分を酷く貶めた人間に見せかけの幸せを与えて、最後にはそこから突き落として絶望させる、みたいな。ところが、小暮は不思議そうに私の方を見ながら言った。なに言ってんの、あんた。

「は?」

「別にそういうのじゃないよ。普通に愛くんを幸せにしてほしいだけ。殺すとか、そういうのないから」

「……一応聞くけど、仕事の期限は?」

「え、一生」

 小暮はなんでもないことのように言った。あんたか愛くんが死ぬまで、一生。

 頭が痛くなってきた。要はこの男は、私に一生をかけて愛という男を幸せにしろと、そう言っているのだ。それはつまり、一人の男のために私の一生を犠牲にしろと言っていることと同義なわけで。

 深くため息をつく私に、なにを勘違いしたのか小暮はああ、と言いながら鞄の中から通帳を取り出して渡してきた。一応受け取って、中身を確認する。私に連絡してきたときに、報酬はいくらでも出せる、と言ってはいたけれど、なるほどこれは確かにすごい。なかなかお目にかかれない金額だ。

「足りない?」

「いいえ、十分すぎるくらい」

 まだ若そうな見た目のくせに、いったいどこからこんなお金が湧いてきているのか。嘘の可能性もあるけれど、目の前の男の態度は嘘をついている人間のそれではない。仕事柄、嘘を見抜くのは得意な方だと思う。

 別に難しいお願いをしているわけじゃないんだ、と小暮は薄く笑って言った。

「愛くんと、そうだな、たとえば結婚なんかして、あったかいご飯とかを食べて、ときどき旅行なんか行ったりして、愛くんが毎日穏やかに眠りにつけて、悪夢を見ないで幸せに目を覚ますことができるみたいな、そういう生活を送ってほしい。……ああ、お見合いってあるだろ? そういう感じかな」

 まるで祈りだな、と思う。軽い調子で言っているけれど、内容は祈りそのものだ。真摯で誠実な、誰かへの祈り。

「神社にでも行って祈ればいいんじゃないかしら」

「俺、神様信じてないんだよね」

 だから確実に叶えられる手段を取りたいってわけ。小暮はそう言うと、わずかに残ったクリームソーダを音も立てずに飲み干した。

 ぬるくなったコーヒーを啜りながら、少し考える。正直、ありえない仕事だ。彼が言うようにこの男と結婚なんかをしたら、まあまずこの仕事は続けられない。成り行きで始めた仕事だけれど、私はわりとこの仕事が嫌いではない。私の性格的にも、結婚や家庭なんていう、人工的に作られたくだらないしがらみで精神と身体を両方とも拘束されるのはなかなかに堪えがたい。私は自由でありたいのだ。けれど、ありえないと思うのと同じくらい、この仕事に惹かれている自分がいた。ありえないからこそ、とも言える。

 あるとき、とある人に聞かれたことがある。なんでこの仕事をしているのか、と。あれは確か、図書館の本を片っ端から上下さかさまに置き換える仕事だった。あの作業になんの意味があったのかはわからない。意味なんてなかったのかもしれない。報酬は出たから、それでよかった。

 なんでこんなことをするの、と私に聞かれた依頼主は、きみこそ、と笑って私に言った。きみこそ、なんでこの仕事をしているの。私の答えに、依頼主は満足したように笑って、ぼくもさ、と言った。忘れてしまった仕事や依頼主も多いけれど、彼のことはよく覚えている。去り際に彼が教えてくれた彼の好きな映画がよかったことも併せて。

 面白いこと。私にとって生きていくうえで一番大事なのはそれだった。映画でも、小説でも、そして仕事でも。面白いから、このなんでも屋とかいう変な仕事をやっている。初めた経緯こそ複雑だとしても、続ける理由は本当にそれだけなのだ。

 そして、その私の直感が告げている。これは絶対に、『面白い』仕事だと。

「受けるわ」

 たった四文字、秒数にすれば一秒にも満たない言葉。たったそれだけで自分の人生の自由を手放すことには、不思議な心地良さすらあった。目の前の男とは言えば、私が人生を放棄したことなんでまるで当たり前のことみたいに澄ました顔をして、なら、よかった、なんて言っている。その異常なまでの冷静さに、心臓がぞくぞくした。初めて人を殺したときと同じだ。自分の手の中に、平凡とはかけ離れたなにかが納まってしまったときの高揚。

 かくして、私の『仕事』は始まった。

(以下日記)

あけましておめでとうございます。本当は年内にこれをあげたかったのですがいろいろやっていたら日付が変わっていました。幸先ずっこけ。

上のやつは書きかけの一次創作です。なんかうまいことまとめられたらいいなと思っています。お楽しみに。感想とかもらえると超うれしいです。

改行をするとちょっと多めに余白が空くのがなんだか慣れなくて不思議です。でもこういう感じの余白に憧れていたのもあったので良いかもしれません。

もしかしたら見覚えがある方もいるかもしれませんが、上の文章は元々別ジャンルの二次創作として書こうと思っていた話です。あまりにもオリジナル要素が強すぎて「それ一次創作でやれよ」と思ったので一次創作でやることにしました。「男が多額の金を払って一人の男を幸せにするために女を派遣する」という根本の設定以外はほぼほぼ別物なのでまた完全に別のものとして楽しんでいただけると幸いです。

2024年も良い年にしたいと思います。よろしくお願いします。あと珍しく年内に大掃除を終わらせられました。きれいな部屋で書く文章は気持ちがいいですね。エアコンのフィルターも掃除したらめちゃくちゃエアコンの効きがよくなりました。感動。

@madobe_hiki
元気 やる気 元気 飽きたら、やめます