水に侵された水
SNSでは軽率な発言を控える。炎上している畑を横目で見てきて、自分の畑が荒れるのを恐れる。僕らは炎上に慣れていない。だから隠す。SNS本来の目的は、共通の趣味の人と繋がる。ストレスを発散する。推しを見つけるなど、どれもが正しく、どれもが違う。所詮、ここに書かれた目的など後付けされたものであり、自身の都合の良いように解釈されたものにすぎないからだ。マーク・ザッカーバーグが金儲けのために作っただけなのかもしれないのに。そうして自分の意見を主張するのが下手になり、空気を読むことだけが上手くなっていく。SNSで染みついたアンチに対する敏感性が、オフラインの環境でも相手の様子を伺い下手に刺激しないよう、嫌われないよう振る舞い合わせ、「あぁ今日も意見を合わせてる(合わせられてる)」と感じる。
人は水。それは物理的な話でもあるが、その感情の動き方は水に近い。ある時、喫煙する場所が定められたのであればそれに順応するように従うし、ある時、職場で髪色やネイルなどの規制があるのであればそれに従う。そしてある時、1年に1回ぐらいの頻度でしか遊ばない親友ではないけど別に仲も悪くないような距離感の友達との会話で「タバコ吸ってる人マジで嫌だけど、常田さんだけは許せるよね〜」という結局顔や雰囲気次第という意見に、水の如く「そうだね〜」と順応する。権威性という名ばかりが先行する評価のもと、その人の作品ではなく、賞に選ばれたりインフルエンサーに紹介されたりした作品ありきの人が評価される。水が水に侵される瞬間だ。
だからか、良し悪し(特に悪し)をはっきりと言う人が好きということに最近気づいた。悪しと言っても誰かを批判するような意見は論外で、ここで言う悪しはなにが自分にとって嫌なのか、あくまで対象は自分であり他人ではない場合のこと。結局は、人間(その人)を知ることが好きなんだと思う。
あとシャワーを浴びている時間が好き。頭の上から全開にした42℃くらいの若干熱さを感じるシャワーを浴びている時間がたまらなく好きだ。ジャーとシャワーヘッドから流れたお湯が頭の輪郭に沿って流れてボタボタと床に落ちる。それは汚れを落とすというシャワーを浴びる目的にはまるで不必要な時間なのだけど、泥よりも濃くこびりついた内にある何かを洗い流すのではなく削ぎ落としてくれる。あの時間は間違いなく僕にとって必要不可欠な時間であり行為。これは人が水に侵される瞬間だ。
シャワーから出た後も僕の頭にこびりついた削ぎきれなかった汚れを吹き飛ばす。4月末。3週間前までアウターを着ていた冬が過ぎ、20度前後を行ききする夏に入る前のほんの短い春。窓を開けて外に流れる環境音を流し込む。雑音だけど嫌音じゃない。僕の家の前は片側4車線もある大きな道路。22時を過ぎても飛び交う車の音が耳の右から左にビュービューと過ぎ去り、まるで頭の中をほうきでサッサっと掃除されている気分。そしてピークが過ぎたところで栞を挟んだ小説の続きを読む。雑音が小説の世界から耳だけでも現実と繋ぎ止めてくれる。そうでもしないと感情が縦横無尽に散り散りになってしまう。お酒が飲めない僕は、水で薄めるタイプのカルピスを濃いめに作り、味覚からも現実を結びつける。お風呂上がりパンツ一枚で過ごす最高の金曜日だ。