人間、普段から聞きなれない言葉には敏感になってしまう。今回のタイトルに「死」と入れたことで普段興味を示さなかった人もドキッと胸が鳴り、少し前のめりで触れる機会となったと思う。餌をつけた竿を垂らしていると魚が勝手に食いつくように、興味をそそるタイトルをみてしまうと能動的に反応する。
煽りに煽りで返すと火に油を注ぐのと同じで炎はグンと膨れ上がる。だから炎上を恐れて誰にも言ってないけど内には秘めてる本心が、表に出てくることはない。最近、本音で語り合ったことがあるだろうか。自信を持ってYESと言える人はいないと思う。僕もYESとは断じて言えない。心の中の自分で消化している人が大半であろう。本音で語っているように見えて、現実を踏まえた発想、発言を無意識に行なっている。保育園からの大親友相手に恋バナや仕事のこと、性の悩みを相談することはできても、その相手との距離感を把握しているからこそ踏み出せない領域がある。「本音」で語り合うことはできているように思えて、実はどこか心の中でセーブされている。本音とは、自分自身にしか聞こえない音なのだ。でも、それこそが人間の心理ではないだろうか。一問一答で本音を引き出すことは困難だと思うし、僕でもできない。だから、会話を進めていく中で本音を探っていくことが大切だと僕は思う。本音とは、トランペットを吹くよりも難しい音なのだ。
ここからはタイトルにあるように死について話していく。死とは何か。死んだ後の世界とは。死ぬことに対する考え方について僕なりの意見を執筆によって深ぼっていけたらと思う。
案外、僕は死に対する抵抗は少ない。もちろん、まだまだ息をしている間にやりたいこと、行きたいところ、食べたいものが文字通り数え切れぬほどあるので自ら死を選ぶことはない。ただ、自身の気持ちとは裏腹に突然亡くなってしまう方が少なくないのも現実。僕もそちら側の人間になる可能性はゼロではないので、いつ死ぬかはわからないし常に死と隣り合わせの状況であることは僕含め一人の例外もいない。
僕の話し相手である祖父も90歳近くの立派なご老人となり、身体にガタもきている。一時期調子が悪く入院していた時期もあり寝たきりの生活を送っていた。認知症も進み僕の名前を忘れてしまっているにも関わらず、いつも会うたびに「ありがとな。」と涙をこぼしながら接してくれていた祖父。お見舞いに行った日も「ありがとう。」と涙をこぼす。縁起もない不謹慎なことかもしれないけど、「人の死は美しい」という言葉の意味が少しわかった気がするとともに、死を悲しむことは贅沢なことなんだなとも思った。晴れて無事体調は戻り元気になった祖父は退院した。本が好きな祖父にぜひ僕の文章を届けたいと思う。
年の功とはよく言ったもので、僕も祖父母と話をすると参考になることが多い。人生の大ベテランが口を揃えて言うことだが、「人はいつ死ぬかわからない。好きなことをしろ。」、と。僕が高校の頃に仲良くさせてもらった一つ上の先輩が数年前に亡くなってしまった。部活動で親密に関わってきたが故に、訃報を聞いたときは体が固まった。まだ22歳だった。好きなことができるうちに好きなことをする、というのは何よりも優先すべきタスクだ。もちろん仕事より。身近の人が亡くなったことで、その言葉がより重く心の中にコアとして存在している。今しかできない、今思いついた好きなことをするようになってから、ある意味心が軽くなってやりたいことが残ってはいるものの今死んでも後悔は残らないという気持ちが強い。これは言い聞かせているわけではなく、本音である。死んでしまったら所詮自分の人生はそこまでだったんだろうと。
たとえ僕の人生(息をしている期間)が終わったとしても、死後の世界が待っているとも思う。池田晶子さんの「14歳からの哲学」という本でも死について言及されているが、死んだからといってその人が何もできないわけではない可能性がある。死んでしまったら回転寿司を食べに行ったり、富士山を登ったり、好きな人とデートをしたりといった物理的な行動は起こせないかもしれない。が、死後の世界には死後の世界なりの楽しみ方が待っているかもしれない。これは死んでしまった人にしかわからない。だから生きている期間が終わったとしても、楽しいことやりたいことが完全に廃れる可能性はゼロではないのだ。
死について、死んでしまった当人の周りにいる人はネガティブに捉えることが多いが、実のところ当人は意外とポジティブだったりするのではないかと、妄想を膨らませたりする。周りにいる人にとって、大事な人がいなくなることはもう2度と生きている世界で会うことはできないので悲しいことには間違いはない。ただ、死んでしまった人に対して悲しいと感じるのは、もしかしたら間違っている可能性もあるのだ。そう言った意味で、僕は死に対して抵抗が少ない。
アニメやドラマなどフィクションの世界では、死んだ人は魂となることが多い。空から生きている人たちを見守ってくれている。それが生きている人たちにできる、ネガティブな感情を抑える方法だからだ。(もちろん僕もそう思っている)
他にも記憶こそ無くしてしまうが、新たな生命として生まれる可能性も語られている。世界に何億という人がいる中、別の記憶を持った人が生まれてきたことはない?し、僕も経験がないので信じがたくはあるが、生きている世界に生まれることができるのであればポジティブなのではないだろうか。
生まれるのかどうかは、実際死んでみないとわからないのだが、生きている世界で考えられることとしては最善案なのかもしれない。(僕も次は菅田将暉か新垣結衣のペットとして生まれたい…)
死の世界とは、死んだ人にしかわからないのだが、案外悪くないもの、として考えておくと死に対しての抵抗が和らぐのではないだろうか。決して死を推奨しているわけではなく、死に対する考え方を見直す余地がある、ということを理解していただきたい。錯覚として「死」という文字を見ただけで怖い、恐ろしい、悲しいという感情を第一想起してしまうが、シャボン玉で包まれているかの如く少しでも丸く見える、聞こえる、感じることもできるのだ。僕の考え方を強制するわけではないが、少なくともこう考える人間もいるというのを知っていただければと思う。
死への抵抗が少ない、と言ったもののないわけではない。だから現実的ではないが、いつ死ぬのかが分かれば良いのになと思うことがある。いつ死ぬのかがわかっているのであれば、その日までにやりたいこと、行きたいとこ、食べたいものなど願望を叶えて迎えることができる。それに当人の周りにいる親しい人たちも1%でも悲しみが和らぐと思う。だが、そんなことはできないので今を楽しむしかない。それに死ぬ日を知っていたら逆にドキドキしてしまい思いっきり楽しめない気がするので、やっぱり知らないでいたい。
より死までの期間(生きている期間)に後悔を残さない方法として月並みだが、死ぬまでに行きたい・食べたい・やりたいことリストを作っておくと良い。自分自身の分析にもなるし、道標のような存在として頭の中に入れておくことができるだろう。死への抵抗を抑えようと必死に足掻いているようにも感じるので、実は一番怖がっているのは自分なのかもしれない。とりあえず僕の死ぬまでリストに「広瀬すずさんと付き合う」を加えておこう(ムリ)
不謹慎で大変失礼を承知で書かせてもらうが、星野源さんが少し羨ましい。2度死の間際に立たれたそうだ。ここでいう羨ましいというのは、僕自身が死の間際に立ったことがないので一度立ってみたいという意味だ。別に星野源さんでなくても構わないのだが、死の間際に立たれた方がどう思って、復帰した今をどう生きているのか純粋に気になる。息苦しい世界から解放する手段としての死、ではなく、死の世界への興味関心という意味だ。あくまで推測というか僕がもしその立場であったのを想像すると2度と経験したくないとは思う。手術室に向かうベッドに乗って家族を背に手を振りたくないし、麻酔が打たれた時点から記憶がされなくなるかもしれない。まだまだ生きて本を読んだり、野球をしたり、ポテチ食べたり、おっぱい揉んだり、やりたいことはたくさんなのだから。かといって必ず生きる保証がされた手術では意味がない。黒幕を知った状態でコナンくんの映画を観るようなものだ。小心者の僕は、死の淵に立つ勇気さえないのに死の淵に立ってみたいと暴言を吐いている。自分では立つ勇気がないし、立てる機会があったとしても進んで立ったりはしない。こうして経験した方のお話を聞いて、自分なりに味わうしかないのだ。死を経験することもまた、贅沢な味わいなのかもしれない。