野﨑まど『小説』

真冬の海
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公開:2025/5/20

"この物語はフィクションである。"

冒頭の一文、fictionの言葉には小説の意味もあるので、この物語は小説である、の意味も成り立つ。そして読後の感想としては、

この物語は私小説である。そう思えた。


・なぜ同一人物(のはず)が同じ場に存在するのか? 途中これが物凄く気になってしまったが、場における「書き手」「読み手」役なのでは? と考えをあらためてからはすんなり納得がいった。勝手に自分が囚われていたいわゆるSF的ルールに拘りすぎていてはせっかくの作品を心底楽しむことは私には難しくて、それはこの小説に限らず、読書に限らず、何事においてもそうだなと気が付いた。ニュートラル大事。

・本をめぐり幼い頃から体験と思い出を共有し成長した内海と外崎はまるで表裏一体で、ただ書くか書かないか、そこだけがその後進む道を分けたように見えた。

読書が大好きで互いを大切に思っている2人とも良い子で、成長後も理不尽な妬み嫉みに身を焦がし破滅の道を選んだりする事が無く、今の自分にできることを真摯に受け止める姿がとても好ましい。

・書き手となった外崎真(トノサキマコト)の中にノザキマドがいるという事は、ずっと読み手である内海集司(ウツミシュウジ)には書き手ではなかった頃の、つまり本名の野﨑まどさんがいるのではと考えている。

髭先生は外崎に読ませ、そして髭先生になった外崎は内海に読ませた。まだ若い自分へ、そしていつでも自分の書いた物を共に読んでくれた友へ、有名で売れっ子な書き手である外崎は基本(まだ読み手であった頃の)自分と内海(ずっと読み手である部分の自分?)の為に書き続けているのがとても良かった。そしてこの部分がトノサキマコト(ノザキマド)の私小説なのかな? と感じた根拠のひとつになった。

・世界のエントロピーはバランスをとっている。これは発見なのでは。エントロピーは増大してゆく方向が基本ルートなので、だからその流れに逆らう創造はとてつもない労苦を伴うのか…と納得しまくった。

・読む前には単に綺麗だなと感じた表紙のデザインも、読後にはとても切実だなと思うに至った。自らの思考や理念、経験、思い出等糧となり血肉となった全てを切り出し書籍の形(←これが表紙のあれかなと思った)にした小説はきらきらしていて、ただいち読者に過ぎない私にはとても美しく見える。心身を削り時の流れさえ分からなくなるような極限状態での創作渦中はきっと壮絶なもので、そのように血を流し生み出されプロの手で物語として再構築された作品は強く心を打つし、呆然とするほど感動する。

・前半2人の幼い時代の、時を忘れて物語に没頭する描写は読書好きさん全員に刺さるはず。後半のティル・ナ・ノーグはまるで精神と時の部屋みたいで、そこに至り日常とは隔絶される事が許されて創作に没頭できるのも大人になったクリエイタならきっと誰もが夢見ると思う。更に「読むだけでは駄目なのか」には「読むだけでいい」、「俺は何も返せない」には「読んでくれてありがとう」「また読んで」

物語で繋がっている書き手と読み手の関係はシンプルに「好き」それだけなのだと、最後あたりはこれでもかこれでもかと突き付けられた。ちょっと照れてしまいそうな勢いで、こんなストレートなプラスの感情をぶつけられて感動せずにはいられなかった。

・ひとりでいる事の多かった少年時代に声を掛けてくれて、それまで無かった読書する愉しみを教えてくれて、更には読書経験に留まらず小学生らしい秘密の共有やちょっとした冒険など、きっと外崎の記憶は内海とのきらきらした思い出で彩られているに違いない。受験の経緯を考えても、内海がいなければ外崎は「書き手」になれたか怪しいくらいだ。もしかしたら(内海が「何も返せない」と言った)内海に捧げた一冊はそんな外崎の「気持ち」なのかも知れないなと思えた。じーんと来るの何度目だろう。

・なのにあのサイン会の扮装…照れ屋さんなの…

@mafuyu
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