まほろばケーキ作品集

まほろばケーキ
·
公開:2025/4/11

前書き

この度は『まほろばケーキ作品集』をお手に取っていただきありがとうございます。

まほろばケーキは波野ほなみと永春キイナからなる合同サークルです。

企画第一弾の今回は、「天気」と「幽霊」をテーマに、春にぴったりのストーリーをお届けします。お楽しみいただけましたら幸いです。


1ページ目。パーカーを着た人物。モノローグ「あたしには気になることがある」
2ページ目。タイトル「春の幽霊」作者なみのほなみ。モノローグ「5号館の外階段に幽霊がいる」。本を読んでいる青年。
3ページ目。パーカーを着た主人公は「幽霊」に話しかける。
4ページ目。幽霊もとい階段で本を読む青年は「花が」と言う。見ると壁と階段の間に花が咲いている。
5ページ目。晴れた日に主人公が階段の前を通りがかると青年がいない。花は枯れていた。
6ページ目。話を聞いた主人公の友人は「幽霊っていうか、妖精?」と言う。主人公はやはり幽霊だと思うのだった。


Cloudy Spring Sandwich

永春キイナ

 左回りに流れる水を見た。見ていた。見ている。シャワーの当たらない背中が乾いて冷えていく。わたしは思ったより傷ついていなかった。

 傷ついていなかったから、同棲を解消するときも冷静だった。ふたりで折半して買った漫画はちゃっかり全巻持ってきたし、大学卒業後も処分が手間で何年も本棚に差しっぱなしだった教科書の類は置いてきた。デパートの催事で買ったチョコレートも、あげたものだけど買ったのは自分だし、と持ってきた。

 同棲の解消が決まっても、仕事もあるし実家へ戻るわけにはいかない。かといってこの新生活シーズンに賃貸を契約するのは骨が折れる。きっと安くていい物件はもう空いていない。そんなときに現れた文字通りの救世主がチカだった。

 二月二一日のことだ。チカとのひさしぶりのランチの終わり、わたしはなんてことはない口調で「家なくなるかも」と笑った。「別れるんだよね」と続けながら。

 すると、チカは当たり前のように言った。

 うちにいていいよ。部屋が見つかるまでさ、狭いけどね。

 言い終えると、道の脇にだけ残っている雪の白い部分みたいに笑った。チカの、その、笑い方、の、遠慮がちだけど優位に立っているのはあくまで彼女であるふうが大学時代から好きだった。

 チカとわたしが出会ったのは、京都の大学だった。まだ一回生の頃だ。その大学は、大学図書館に入るときにICカードが必要で、このカードが紛失・破損などで作り直しになると再発行まで図書館が使えなかった。みんながみんな図書館を使っていたわけではないが、それでも学期末のレポートの時期は参考文献を探しに多くの学生が足を運んでいた。

 わたしは大学図書館という専門分野の集合体のこの場所が言いようもなくたのしく、意味もなく出入りしていた。そんなあるとき、図書館に向かっていると、地下へと向かう階段の踊り場に図書カードが落ちているのを見かけた。室田周子。そう印字されている。事務室に届けに行こうかとも思ったが、地下へ向かう階段に落ちていたということは、もしかしたら今この人は図書館に向かっているのかもしれない。そう思ったのはほんの思いつきだった。それが当たっていたと知るのは、図書館の入り口で鞄の中を何度も何度も探りながら慌てる様子の女性がいたからだ。

「あの、もしかして、ムロタチカコさんですか」

 ば、とこちらを振り返った両目は本来すずしげな印象を与えるだろうに狼狽ていて、わたしは咄嗟にカードをかざしてみせた。

「これ、そこ、落ちてました」

 おぼつかない口調でカードを見せると、彼女はそれが自分のものであると納得したのか、「ありがとうございます」と笑った。ああ、そうだ。そのときがはじめてチカの笑った顔を見た日だった。

 そして、二度目の再会は大学構内の喫煙所だった。だから、つまり二〇になってからか。いや、二〇になる年のまだ一九の頃から、貰いたばこくらいならしていたかもしれない。わたしもチカも、そこそこ真面目で、そこそこ不真面目だった。

「あ」

 声に出してから、向こうは忘れているかもしれないのに、と後悔した。けれどすぐに「あ、どうも」と返ってきて、わたしはなんとなく真横に立った。

「チカコさん」

「よく覚えてますね」

「なんか、いい名前だなって。あと学科以外の人と喋ったのあのときがはじめてだったんで」

 へへ、と照れ隠しみたいな笑い声が口をついて出た。

「あ、じゃあ同学年、かも。いま二回生?」

「え、うん。うん。そっか、同い年なんだ」

 長い指が灰を落として、こちらを下から覗くように節目がちな目がとらえた。

「名前は?」

「真実」

「マミ」

「うん、しんじつって書いて、マミ」

「そっちも」

「うん?」

「いい名前」

 わたしが吸うのはいつもメビウスで、チカはいつからか手巻きたばこを吸っていた。そんなの、どこで買うの。いつだったか訊いたことがある。まだ、チカコ、と名前で読んでいたときのことだ。たばこ屋。チカは短く言った。たばこ屋と言われても、わたしはパッとその店の外観が想像つかなかった。駅前なんかにある、本当にボロボロの、老人がやっていて常連しか来ないようなたばこ屋なのか。それとも、言うなればコーヒー豆を焙煎してもらいにコーヒーショップに行くみたいに、専門店的なことなのか。

 喫煙所は大学構内に二箇所あって、そのうちのどちらかといえば人気のない、勝手の悪い方の喫煙所でわたしたちはよく出会った。軽口を交えたり、それぞれの学科の愚痴を……別学科だからお互いの人間関係には干渉しないのをいいことに……話しながら、ゆっくりとたばこを吸う逢瀬を何度も重ねた。

 チカを見ていると、自分だ、と思うときがわたしはたびたびあった。これは自分を相手に重ねているというよりは、チカがわたしに重なるような。会うときは大抵ふたりきりだったから、チカが自分以外と喋っているところを目にしたことはそうなかったけれど、もしかしたらチカは誰に対してもそういう魅力ある人間だったのかもしれない。一度だけ、チカが同学科の生徒と思しき数人と歩いているのを見たことがある。チカは笑顔で談笑をしているように見えた。でも大学に来てまで馴れ合っているふうじゃなかったから、わたしはやっぱりチカに自分を感じていた。そうして、また、いつもの喫煙所。そこでチカが同学科の人間に対しての悪口を言うのを聞くのが好きだった。ああ、やっぱり、許されているのはわたしだ。そう思えた。でも仮にチカが同学科の人たちにはわたしの悪口を言っていてもよかった。むしろ惚れ惚れするくらいうれしかっただろう。

 そんな、チカが。うちに来なよと言った。すこし驚いた。だって、チカってパーソナルスペースが広そうというか、プライベートは見せないタイプだったし。卒業後もわたしたちは何度か食事を共にしたけど、泊まったことも、泊まらせたこともなかったし。チカがわたしと会うように同期にまだ会っているのかどうかも、知らなかったし。

 いいのですか。

 不自然な敬語になるわたしをチカは笑いとばして、「真実がわたしに敬語とか新鮮」と言った。見たことのない笑い方だった。

 

         *

 

「帰り何時になる?」

 今日はねえ、と間延びした声でスマホを開き、スケジュールアプリを起動したのであろう彼女は「あ、今日掛け持ちの日だ」と言った。

「一五時まで清掃のバイトで、そこから二〇時まで喫茶店のシフト入ってる」

 おーけー、おーけー、とわたしまで間延びしたように返して、夜は家で食べる?と尋ねる。

「外で済ませてきてもいいよ。予定あるの?」

「いや、夕飯、食べるなら作ろうと思って」

 わーい。チカがちいさく喜ぶ。チカは、清掃と、喫茶店と、居酒屋と三つのバイトを掛け持ちで生活しているので、わたしより多忙なんじゃないかと思うときがある。そんなチカに変わって、家賃の一部を収めているとはいえ居候の身のわたしは家事をすることも多かった。最初は家のことを勝手にやるのもどうかと気を遣っていたが、一ヶ月住んでもチカは心の底から気にしていない様子だったので、では恩義を返そうと思ったまでである。

 わたしはこの一ヶ月、仕事もほぼリモートだし、週の休みはきちんと二日あるし、不動産会社に行こうと思えばいつでも行けた。でも、行かなかった。なにか忙しさを見つけて不動産会社に行けないことの言い訳にしたいわたしにとっても、家を任されるというのはまんざらでもなかった。

「食べたいのある?」

 まるで言われたら作れるみたいな口ぶりでわたしは訊くが、料理はチカの方が得意だ。角煮も、パエリアもビーフシチューも、彼女は巧みに作る。

「サバ缶の味噌汁が飲みたい」

「メインじゃないじゃん」

「おいしかったから」

 サバ缶の味噌汁とは、わたしが以前作った料理だ。なんてことはないサバ缶と有り合わせの野菜の味噌汁だが、酒粕を入れることで味に深みが出る。たしか昼時で、チカもめずらしく昼に家にいる日だった。作ったけど、飲む?と与えたら何も言わずに飲んでいたけれど、気に入っていたらしい。

「うちでは味噌汁にサバ缶を入れるなんてなかったし。カレーにはあったけど」

「カレーの方がないよ」

「サバカレーって結構あるやつじゃない? すき家とかでも出てなかったっけ。あれ、CoCo壱?」

「そういう店あんま行かないからわかんない」

「わたしも」

 じゃあこの話は終わりだ、とわたしが言うと、「出た、真実の口癖」とチカが目を細めた。

「いいからメインのリクエストをしてよ」

 スマホの表面をタップして時間を確認する。チカが家を出るまであと一〇分もない。

「いま朝ごはん食べたばっかりなんだけど」

「チカは知らないかもしれないけど、料理の段取りが悪い人にとって夕飯を作るって一大イベントなんだよ。一日中頭の片隅にあるの。何作ろうって悩んでるのも疲れるから、言って」

「遅くなってもいいならわたしが作るのに」

「いえいえ、そこは、感謝の気持ちですから」

「何その敬語」

 噴出したチカが、その口を真一文に結んで、「うーんじゃあトンテキ。食べたい気分」と言った。

「じゃあトンテキとサバの味噌汁ね」

「豪華だ」

「そうだよ、だから今日も仕事をがんばりたまえ」

「うん。じゃあそろそろ行くわ」

 

         *

 

 青果コーナーから順に回り、寒っとかキャベツ高っとか冷やかしながら買えそうなものをカートに入れていく。日が暮れてきた頃、カーディガンを羽織ってスマホだけ持ってスーパーへ来た。一緒に暮らす上で食費の管理のために共有の財布を作るという案もあったが、光熱費などは出してもらっていることを挙げて食費は基本自分持ちでいい、と言ったのはわたしの方だった。「基本」というのはチカが買い物に行くときはチカが払うからで、逆にふたりで買い出しに行くときは大まかに割り勘することもあった。わたしが払うこともあった。そういう、大雑把さがわたしが彼女に感じている「自分み」であり、元恋人とは違うところだった。

 元恋人は金銭感覚のきっちりした人で、それはきっと多くの人にとって美点なのだろうけど、わたしは息苦しかった、のだと思う。「いいよわたしが払うよ」とか、「細かくなっちゃうから小銭いらないよ」とか、そういうことを一切許さない人だった。いや、許せない人だった。あ、てかいま別れてからはじめて思い出したな。買えないくらい高い卵をカートに入れるか悩みながら、頭の遠くの方で思う。

 忘れていたんだな。いや、忘れていたというか、忘れたことすら忘れていたというか。忘れた状態が当たり前すぎて、忘れているなんて思いもしなかったというか。ただ一度思い出してみるとこれが不思議で、頭にこびりついて離れない。

 なんだか、嫌な予感がした。悩んだ末にMサイズの卵を買う。サバ缶を買う。豚ロースを買う。パンを切らしていたからロイヤルブレッドど悩んでイングリッシュマフィンを買う。やけにくさくさした気持ちで買い物を終え、家に帰る。こういう日ばかりは料理に限るかもしれない。料理をすれば、その工程の多さにわたしの脳は驚いて、きっとそのことしか考えられなくなる。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。

「大丈夫」

 坂道を上りながら、あ、声、と思う。声に出ていた。周りを確認して、人の気配のなさに安堵して足を早めた。

──いまから帰るよん

 そのメッセージに気づいたのは、チカが帰ってきたあとだった。わたしは夕飯を作っていた。大根とにんじんをイチョウ切りにし、玉ねぎを薄く切って、鍋にサバ缶と一緒に突っ込み、柔らかく煮たったら酒粕とほんだしを入れて、味噌を溶く。

トンテキは事前に作り方を調べ、検索のトップに出てきたサッポロビールのレシピで作ることにした。豚ロースに四本の切れ込みを……切り離さないようにグローブ状で……入れ、塩胡椒と薄力粉を振る。馴染ませている間に調味料を混ぜる。ウスターソース大さじ2、ケチャップ、醤油、砂糖、酢を小さじ1。チカが見たら笑うだろう。チカは鍋に目分量で直接調味料を入れていってもしっかり味が決まるから。そんなことを考えていると、チカがぬ、と後ろから姿を出した。

「ただいま」

 ぎょっとして振りかえると、「お、もう焼くだけじゃん」と言って、チカは何事もなかったようにシンクで手を洗う。スプリングコートに水が跳ねて、ゆっくりと染み込む。

「おかえり」

「大丈夫? なんかぼうっとしてたけど」

「いや、段取りを考えて集中してただけ」

 そ、と呟いてコートをラックにかけに行く背中を見送り、豚ロース肉と向き合う。

 フライパンに油とチューブのにんにく……レシピでは生にんにくを使っていたが、チューブでもいけるだろうと横着した……を入れて熱す。こうして横着している時点で意味があるのかは知らないが、にんにくの香りがたったことを確認してから肉をフライパンにゆっくりと下ろすと、脂の焼ける匂いとともに激しい音があがった。火を強火まで上げてきっかり二分。菜箸で肉を裏返し、反対側も強火で一分火を通す。あらかた火が入ったことを確認し、中火に落としてから合わせ調味料を入れる。一気に換気扇では間に合わない「食べ物の匂い」が部屋に満ちて、チカがキッチンの窓を薄く開けた。夜の外気はすこし、寒い。

「おいしそうじゃん」

「たぶん、レシピ通りだから大丈夫なはず」

 キャベツの千切りが上半分にこんもりと盛られた平皿に、ソースの絡まった肉を移す。彩り的にはトマトでもあったらいいけど、彩りのためだけにトマトは買えない。

「食べよ食べよ」

 チカが冷凍ごはんをひとつと、グリーンラベルを一本冷蔵庫から出す。チカは晩酌をするから白米を食べない。わたしの分の冷凍ごはんを電子レンジであたためるチカを横目に味噌汁を汁椀によそい、テーブルの真ん中にトンテキの乗った平皿、その前に取り皿と箸、汁椀を置く。

 いただきます、と手を合わせる動きが一瞬、ほんとうにいっしゅん、どうやるんだっけ、と真剣に考えた。思ったよりわたしは傷ついているらしかった。何に?ひさしぶりに思い出したあの人のことに?それとも、忘れていたことに?「思い出さ」なきゃ存在もないように振るまっていたことに?

 それとも、チカをきっかけに思い出したことに?

「そういえばねえ」

 あの人も、間伸びするような喋り方だった。

「今日、帰りに桜がちょっと咲いてたよ。明日は暖かいから、もっと咲くかも」

 春の訪れをわたしに何度もたのしげに知らせた。

「真実?」

 最後まで、呼び捨てにはしてくれなかった。真実ちゃんって。すごく品行方正に呼んでくれる人だった。

「もー、何、なんかあった?」

「ない」

「嘘。何もないときに泣くような殊勝なタイプじゃない」

 チカの、笑い方が好きだ。チカの笑い方は唯一無二だ。わたしの隣でいつもみたいに笑うチカを見て、すでに堰き止めきれていなかった涙は勢いを増した。

「おー、泣け泣け。そんで、はやく泣き止まないと、わたしがトンテキ全部食べちゃうよ」

 そう言って、チカはテレビを点けた。ゴールデンタイムの意味のないバラエティの音が耳に入ってきて、すこしずつ冷静になってくる。チカがテレビを真剣に見ているとは思えなかったけど、声を殺して涙を流しつづけた。わたしが泣いている間も、泣き終えて冷めたトンテキを冷めたまま食べているときも、チカは涙の理由を聞かなかった。気を遣ってくれていたのかもしれないし、気にも留めていなかっただけかもしれない。

 すっかり冷めきった夕飯を食べ、洗い物をしていると、チカがふいにつぶやいた。

「曇りだね」

「明日?」

「いや、何日か続くっぽい。なんか、なんだっけ、花曇? 桜が咲く時期の曇天のこと、季語だとそういうんだって」

 季語、と聞いてパッと思い浮かべたのは小学生の頃、国語の時間で俳句を作らされたあの一回きりの時間で、でも小学生の知りうる季語なんてせいぜい「たんぽぽ」とか「夏休み」とかくらいだった。季語として正しかったのかもよくわからない。

「やってるの? 俳句」

 努めて、さっき泣いた気配を滲ませないようにからりとした声で返すと、「おじいちゃんがやってんのよ。俳号?とかもあるって言ってた。俳号が何かは知らん」とどうでもよさそうに返ってくる。

「ふうん、でもよく覚えてたね」

 平皿の泡を濯ぎながら返す。

「わたし、おじいちゃんっ子だったんだよ。だからさー、こっちの大学に進学するってなったときも、おじいちゃんが入学祝いにって買ってくれたのがさい……さいじき? なんか、季語が載ってる辞書みたいなやつでさ。いや、お金とかももらってそれもすごいありがたかったんだけど、このさいじきがさ、ほんとにちっちゃい辞書くらいあんの。箱に入っててさ、こんなのいらないよーって思ったんだけど、大学二回のときかな。暇なときによく捲ってた。いろんな季語があってね、きれいな言葉とか、わけわかんないやつとか、すっごい長い、五七五のどこに入んのよみたいなやつとか。で、例文?例作?なんて言うんだろう。たぶん、俳句の有名な人の俳句がそれぞれの季語に載ってるの。それを見てたんだよね」

 チカは続ける。

「花曇の欄には、なんて人だったかな……人は忘れちゃったけど、俳句は覚えてる。〈ゆで玉子むけばかがやく花曇〉って、書いてあったの」

「ゆでたまご?」

「意味わかんないじゃん」

「意味わかんない」

 リビングに戻ると、チカは本棚の前で背表紙を順繰りに眺めては、これじゃない、これじゃない、と呟いていた。

「探してるの?」

「うん。ああ、これだ」

 表紙には「歳時記」と書かれていた。チカは慣れた様子で索引から「花曇」を引き、春の一八頁を開く。

「中村……うーん、難しい字だ」

「わたしも読み方はわかんないけど、たぶん有名な人」

 そこには、さっきチカが読み上げた俳句の下にスラッシュで、作者と思しき「中村汀女」と書かれていた。

「この俳句ね、最初はまったく意味わかんなかったの。でも、実際にすんごい曇ってる日にサンドウィッチ作ろうと思ってゆで玉子剥いてたらさ、あ、光ってる、って思って。ていうか、内側にある黄身の黄色さから発光するみたいにかがやいてる、たしかに!って思って。外は曇ってて暗いのに、手許の卵はこんなにピカピカしてる。その……対比? まったく違うシーンがアパートの壁一枚隔てて共存、してる感じ。なんか、それっていいなあって思ったんだよね」

 いつものわたしだったら、詩人じゃん、とか言って適当に茶化していたかもしれない。でも、チカの説明を聞いていたら、その光景が、感動が、ありありと自分の中に流れ込んできた。

 そうしているとやけに素直な気持ちになって、チカに今日の話を聞いてほしいと思った。チカは気にもしてないだろうけど、わたしが話したくて、膝を折って隣に座り直す。

「今日、元恋人のことを思い出したんだよね。買い物中、チカとの暮らしはお互いゆるさがあって楽だなって、思って。ほら、金銭面とかさ。でもわたしの元恋人ってそういうところが異常なまでにきっちりしてて、それがちょっと息苦しかったんだけど、でも、たぶん、そういうところも好きだったの」

 チカは相槌を打たなかった。

 チカにあの人の話をするのは、交際の期間中も、別れてからも、はじめてだった。

「さっき泣いちゃったのもね、ああ、チカってあの人にも似てしまうんだなって思ったから。全然似てないんだよ。いいところも、悪いところも、全然似てないの。でも、そう思うより前からね、わたしは自分もチカに似てるって思ってた。わたしが似てるんじゃなくて、チカがわたしに似てるの。チカはきっと、そういう魅力があるの。みんなチカに自分を重ねて、同期しちゃうの。でもチカはチカだから重ならない部分もあって、それがなんかかなしい気がして、それって、なんて身勝手なんだろう、って思って。自分がすごく嫌な人間でさ」

「うん」

 ようやく打たれた相槌は、やけに静かだった。

 わたしね。

 どちらが言ったのだろう。どちらも言ったのかもしれないし、わたしの空耳で誰も言ってなかったかもしれない。でも、じっと続きを待っていたら、チカはゆっくりと口を開いた。

「真実が言ったようなこと、別の人からも言われたことあるよ」

 歳時記の一八頁を撫でてから、チカは本を閉じた。

「わたしたちって似てるね、とか、こんなに一緒なんて前世双子だったんじゃない?とか、ドッペルゲンガーみたいとかね。全部冗談かなって笑い飛ばしてたけど、たまに怖いときがあった。わたしって、あんまり自分とか持ってないからさ。親密になった人にこっちから寄せていっちゃってるんじゃないかな、とか思ったりして。それってキモいかなとか考えたし」

 なんかさ、と。チカは考えながら、一言ずつ、声に出すように言った。呼気が揺れていた。緊張しているのだ、きっと。

「取り憑いてる、みたいじゃん」

「取り憑く?」

「うん、幽霊、てか生き霊? わかんないけど。いつか相手の人生を乗っ取っちゃうんじゃないかって、怖かった」

 そんなこと、あるわけないのにねえ。そう言って笑ったチカの表情がびっくりするくらい痛々しくて、わたしは思わず抱きしめていた。腕の中のチカは息を吐いていたし、脈があったし、熱かった。幽霊なわけない。チカは、どうしようもなく人間だった。

「ごめん、変なこと言った」

「変じゃないよ。嫌になったでしょ、わたしのこと」

「なってないしならない」

 息を吸う。息を吐く。息を吸って、吐くのと同時に言った。

 明日、お花見に行こう。

 チカは、毎週日曜日は絶対にシフトを入れないのだ。だから明日は休みだった。顔を覗き込むと、「この流れで言う?」と呆れたように眉を下げたチカがいた。

「チカが明日にはもっと咲いてるって言ったじゃん」

「言ったけどさ」

「じゃあ行こう。サンドウィッチも作ろう。卵超高かったけど買ったもん。パンも買ったよ、イングリッシュマフィンだけど。花曇のゆで玉子、わたしも見たい」

 チカは諦めたように、「イングリッシュマフィンかい」と言った。

 

         *

 

 チカのベッドの下にテーブルをずらして布団を敷いて、わたしは寝ている。朝起きると、くつくつ、ぼくぼく、お湯の沸く音がした。布団を畳んでキッチンに顔を出すと、チカが雪平鍋で卵を茹でていた。

「おはよ」

 昨日のことが一日経った今なんとなく気まずくて、声が裏返りそうだった。チカはちらりとこちらを見て、髪跳ねてる、と口をむずむずと動かした。気まずいのは彼女も同じだったようだ。そうなればいっそわたしは気にならなくなってくる。

「あ、ていうかさ、全粒粉のやつ買ったの。なんかダイエットにはグルテンフリーがいいって聞いたから」

「ダイエットしてるの?」

「万年してる。痩せないから止めどきがない」

「たぶんこれ、全粒粉入りだから小麦粉も入ってるよ」

 そう言ってチカは裏の成分表をこちらに寄越す。

「あ、えー、もー」

「まあ普通のパン食べるよりはいいんじゃない? あ、ねえ、花見どこでするの?」

 タイマーが鳴って、チカは鍋の火を落とした。

「やばい、この辺どこに桜の木があるかとか全然わかんない。名所みたいなのは混んでそうだしなー京都までわざわざ桜見に来んなよって話だよね」

 桜なんて各々の住んでる土地で見ろっての、と自分を棚に上げてわたしがぼやくと、はいはいと流しながらチカは言った。

「うちのベランダから、隣の公園の桜がいい感じに見えるよ」

「え!知らなかった! じゃあいいじゃんそれで」

「まじか。もっとさ、ピクニックシート敷いてみたいなのやりたいのかと思ってた。通ると思わなかった」

 チカは鍋の湯をシンクに捨て、水を張って保冷剤を入れる。

「近いに越したことないでしょ。なんで保冷剤?」

「冷ますと殻がきれいに剥けるの。氷はもったいないじゃん」

 なる、と言いながら一旦キッチンの反対側の壁にある洗面台に立ち、寝癖を梳かして歯ブラシに歯磨き粉を絞り出す。

「あ、てかさ、せっかく家ならお酒飲もうよ! サンドウィッチならワインかな。チーズとかも買ってさ、最高じゃん」

「いいねえ。昼酒じゃん。スーパー行く?」

「だるいからセブンだな」

「あー確かに、だるいわ」

 じゃ、真実が準備できたら一回セブン行こ。チカはリビングに引っ込んで着替えているようだった。部屋着で出てもいいかなと思っていたのに、チカはそういうところがしっかりしている。仕方なく、わたしも歯を磨き、洗顔をして、適当な服に着替える。

 家を出て、階段を下る。チカのマンションは三階建てでエレベーターがない。下って、下って、エントランス。今日は予報通りの曇り空だ。セブンの方向へ一直線に行こうとするわたしを呼びとめて、「ほら、あの公園」とチカは指をさす。方角的に建物で陰っているが、たしかに大きな桜の木があるのがわかった。枝ぶりはしっかりとしていて、花も五分咲きというところだろうか。満開にははやいが、花見をするには足りるくらいには咲いていた。なるほど、これこそ花曇。ゆで玉子日和だ。

「ベランダから桜が見える物件って、やっぱ内見のときとかに推されたりした?」

「あー、でも言われたかも。さらっとね。春には桜も見えるんですよーくらいの」

「意外とさらっとか」

「まあわたしも住んでて桜見ようと思ってわざわざ出ることはなかったしね」

 そういうもんか、そういうもんよ、と会話をしているうちにセブンイレブンに着き、真っ先にワインコーナーへ向かう。

「赤? 白?」

「赤のほうが合いそうだけど、白のが好き」

「わかる。白にしよ。安いのでいいよね?」

 チカは何も返さずにふらふらと乾き物の売り場へ向かっていったから、気にしないということだと解釈して一番安い酸化防止剤無添加白ワインを手にとる。

 わたしたちは、それはもうたくさんのつまみを買った。カマンベールチーズ、ポテトチップス、チョコレート、生ハム、サラミ、たこぶつ、イカのスナック。手当たり次第に欲しいものを買い物かごに突っ込み、レジカウンターへ向かう。

「ここ出すね」

「結構高くない? 半分送っとこっか?」

「ううん、お花見しよって誘ったのわたしだし」

「ありがとー、じゃ、外で待ってる」

「おん」

 会計は三〇〇〇円ほどで、コンビニで急に使うには馬鹿らしい出費だけど、スーパーで卵を買うか悩むよりずっと気持ちのいい買い物だった。自動ドアを潜るとチカが車止めの上に片足で立ったり、もう片足を乗せたりと所在なさげに待っていた。

「おまたせ」

「いやいや、ありがと」

 来た道を戻り、三〇一号室の玄関を潜る。出かけることは扉を潜りつづけることだ。鍋を台拭きを敷いた天板に乗せ、手を洗う。鍋に張った水は保冷剤の冷気ですっかり冷たくなり、同様に、卵も冷えていた。

「本当に卵が光るのかなぁ」

「えー、なんかそう言われると違ったときわたしが滑ったみたいじゃん。あと、かがやくだからね」

「うそうそ、素直にたのしみではあるけどね。チカが見た景色を知りたい」

 チカが、卵の表面を鍋肌にぶつけてヒビを入れる。そのままころころと滑らせると、ヒビが広がった。慎重に、欠けたりしないように、チカは静かな指先で殻を一枚一枚剥いていく。わたしはそれを固唾を飲んで見守った。

 卵が剥き終わっても、ふたりともしばし無言だった。ツヤツヤの白い表面を二人並んで見ながら、チカの指先も同時にじっと見ていた。

「なんか」

 先に口を開いたのはわたしの方だった。

「わかるかも。かがやきだ、これ。ここだけまぶしいみたい」

「でしょ」

 チカは得意げに笑って、次々とゆで玉子を剥いていく。わたしは剥かれたゆで玉子をフィリング用にぐちゃぐちゃに潰しながら、てかさ、と口を開いた。

「昨日、あんま自分とかないって言ってたじゃん。わたし、あのとき何も言えなかったけど、チカのこういうまなざしは、チカのものだって思う。俳句の情景が実感としてわかったり、それをわたしに話してくれたときの言葉の選び方とかさ、それって全部チカが今までチカだったからだよ」

 すごかったよ、茶化せないくらい、迫真だった。そう続ける。

 数秒待っても返事がないから横を盗み見ると、左目しか見えないチカの横顔が涙で濡れていてぎょっとする。

「え、え!?ごめん、わたしなんかまた」

「ちがうの」

 チカはもう一度、確かな口調で、「ちがうの」と言った。決して、悲痛な声じゃなかった。それだけだった。

 わたしたちは、イングリッシュマフィンを半分に割ってトースターで焼いて、その間にフォークで潰した卵にマヨネーズとホワイトペッパーと塩を混ぜて、それを焼き上がったパンにたんまりと挟んでサンドして、それで。それで。ひどく長い話をした。料理をしながら、ベランダでちびちびとワインを舐めながら、昨日の夜に負けないくらい長い話をした。

 チカはその中で、「真実はわたしのこと、はじめて会ったときからシュウコじゃなくてチカコって呼んでくれたよね」と言った。「みんな、最初はシュウコって呼び間違えるの」と続けて、笑った。

 桜が咲いていた。ベランダからよく見えた。厚い雲から光が落ちて、街が薄いヴェールのように包まれていた。

 春だった。たしかに、わたしたちに、ひとしく、均衡な、春だった。

 これは日記ではないから、これ以上のことは、書かない。


あとがき

波野ほなみ

こんにちは。波野ほなみです。

この度は友人と一緒に企画ができて嬉しいです。

読んでくださったあなたへありがとうを言いたいです。またどこかで!

永春キイナ

はじめまして、読んでいただきありがとうございます。

まなざしや不理解の上に成り立つ友情の話が好きです。

きっとあなたと同じクラスだったらわたしの小説を読んでもらうことはなかったです、感謝!

@mahorobacake
波野ほなみ(Honami Namino)と永春キイナ(Kina Nagaharu)による漫画・イラストと小説・詩歌の合同サークル