まほろばケーキ作品集Ⅱ

まほろばケーキ
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公開:2026/2/14

前書き

この度は『まほろばケーキ作品集Ⅱ』をお手に取っていただきありがとうございます。

まほろばケーキは波野ほなみと永春からなる合同サークルです。

企画第二弾の今回は、「コンビニ」と「流」をテーマに冬らしいストーリーをお届けします。お楽しみいただけましたら幸いです。



対流

 学校、もうないんだねえ。

 平日の日中にシフトに入ると、おなじことを何度も何度も訊かれる。何度も何度も話す。あはは、もう大学も決まってて、あ、そうそう、いやー、もう全然、単位も取り終わってるから自由登校なんですよ、一人暮らしの資金ちょっとでも貯めときたくて、あはは。これで絶対に対処できた。あら早い、優秀なのね、ええ〜もう親御さんも喜ぶでしょう、こんなにしっかりした子に育って。

 パートタイムの主婦が多いバイト先だった。毎年三月と九月にサンキューセールと称してシュークリームがひとつ三九円になるのだ。だからこのケーキ屋はその時期だけ臨時のバイトを大量に雇う。家族に勧められるまま面接に行ったら即日採用だった。

 臨時バイトの間だけ働こうと思っていたのに、下手な嘘をついたせいで「十月以降は厳しい? 学校もないならどうでしょう。登校日は調整するし時給も上げますよ」と声がかかった。その頃にはバイト先にも馴染んでいたし、家にいてもすることもないから、迷うことなく頷いた。

 嘘はついたけど、すべてが嘘だったわけではなかった。足りなかった分の数単位だけスクーリングでとったから卒業資格はあったし、AOで大学も決まっていた。給料は新生活のために貯めてある。高校は春に辞めた。だからもう登校することはない。

 毎日おなじ嘘をついていたとして、そうしたら自分まで騙されそうになるよな。嘘と本当の間がどんどん解けていく。おなじ文言を淡々と説明するたびに、自分にも言い聞かせている。自分はまだあの学校の名簿に名前がある気がしてくる。卒業式に出なきゃいけない気がしてくる。高校を中退したのは大した理由じゃなかった。いじめとか、家庭環境とか、そういうものによって精神的に落ち込んだとか、全くなかった。全くなかったけど辞めた。友達にも何も言わなかった。LINEはそのままだけど、向こうも気を遣っているのか、受験期でそれどころではないのか、それとも中退したということは友達としても退場ということなのか、連絡が来ることはなかった。別に何も言えることがなかったからこちらからも何も送らなかった。ケーキ屋でバイトをはじめた。一ヶ月限定だったのに気づいたら冬になっていた。十二月はクリスマス、一月はお正月ケーキ、二月はバレンタイン、三月はホワイトデーとサンキューセール。冬のケーキ屋は繁忙期だと知った。バレンタインデーを超えて残すところ大きなイベントはホワイトデーとサンキューセールのみだが、三人しかいない社員たちはクリスマスも寝ることも帰宅することも叶わずにケーキを作り続けていたから三月もさぞ忙しいだろうと週五で出られると伝えてあった。

 卒業式、いつですか? そこは絶対休みたいよね。

 言われてから、自分の詰めの甘さを呪った。口から咄嗟にこぼれ落ちたのは「卒業式も自由参加なんで、忙しいと思うし入ります」だった。なんだよそれ。そんな学校あるわけない。

 でも引っ越しは避けられないから、勤務はホワイトデーまでにしてもらった。本当に助かります、と何度もチーフから頭を下げられた。悪い気はしなかったけど明確に嘘をついた罪悪感はあった。

 単純な疲れだけではなく頭も鈍る帰路、またおなじところで足が止まる。ケーキ屋の工場からほど近いコンビニ。

 今日は。

 なんでもいい。喉が渇いた気がした。お茶を買ってもいいし、アイスを買ったっていい。いや、でも冬にアイスを買ったら変だろうか。そもそも制服を着てない。どう思われるんだろう、という杞憂と、誰も自分をどうとも思わないのにという諦念はあっけなく同居する。駅からも真逆だし周りに高校もない。店員がそれを不可思議に思う可能性は? 正直高校三年生なんて大学生と変わらなく見えるだろう。でも万が一同級生がいたら。同級生じゃなくても高校生がいて、平日のど真ん中に制服も着ずにひとりでコンビニに入っていく自分はどう映る。

 こういうことを考えるうちに、コンビニから足は遠のき、決まりきった道を戻って家に着いている。

 コンビニで何か買いたいんじゃない。無力さを感じなくなりたい。春になる前に克服しなければ、バレてしまう気がした。大学生活も失敗すると思った。そんなわけないことはわかってるのにどうしても考えてしまうからコンビニに行かないといけなかった。

 目立ったフェアがない時期、バイトは恒常商品のケーキの補佐に回る。モンブランに金箔を乗せたり、ホールケーキの決まった位置に決まったフルーツとクッキーを乗せたり。最近はスポンジケーキのスライスも任されるようになった。フェアの時期じゃない工場は人の数もぐっと少なく、等間隔に離れて広い空間で作業できるから居心地がいい。波みたいな人のうねりの中で委ねるように自分も波の一部として働く繁忙期もそれはそれで癒される。でも人がいない空間は落ち着く。天職なのかもなーと思う。高校はバイトが禁止だったから、はじめてのアルバイトだった。

 エアシャワーを浴び、ところどころにクリームが付着したプラスティック手袋を外して内側に丸め、ゴミ箱に捨てる。更衣室前の手洗い場で爪の中や手首まで洗う。そうすることでようやく更衣室に入ることができた。

 作業着の内側があたたかい。クリームを扱う製菓室は極寒のように寒いが、スポンジケーキのスライスは焼き場の裏手の機械で行う。焼き場のリーダーの小野さんは気のいい中年男性で、焼き場側で俺を見かけると、「口開けてみ」と商品にはできないB品のクッキーを放り込んだり、「期限が今日までだからひとり一個まで持ってけって言っとけ」と製菓室の人数分売れ残りの焼き菓子をくれたりした。もちろん公には認められていない。ただチーフやそのさらに上の人らもなんとなく見逃している、というような雰囲気があったからありがたくもらっていた。一度作業場から出るときは様式として作業着の中に隠して出てくる必要がある。そういう、意味のなさそうだけどみんなが守っているルールがけっこう好きだ。小野さんが持たせてくれた焼き立てのフィナンシェはまだほのかにあたたかい。普段は適当に家族にあげているが、今日は食べようか。タイムカードを押して着替える。更衣室は暖房もついていない。服を脱ぐと身震いする。最小限の動きで着替えを済ませ、少ない荷物の中にフィナンシェをしまう。

 雪靴についた雪はすっかり溶けて水になり、靴底を濡らしていた。靴を履く。おつかれさまでーす。人のいない空間に退勤の挨拶をする。見える範囲に人がいなくても入ったときと帰るときは挨拶をするのも決まりだった。臨時バイトがいないときは基本社員と通年いるパートと自分のみで回す上、社員はまだ製菓室にいるしパートの人たちは夕飯の支度があるからとすでに上がっている。この時間に帰るのはいつも自分だけだ。

 

         *

 

「あのー」

 声が自分にかけられたものだと気づいたとき、固まってしまった。コンビニの店員であろう制服姿の男はこちらが何も返さないことにさして思うことはないのか、要件が伝えられればそれで十分なのか、その後も声を続けた。すこし高いところに頭があった。

「入ります? 雪、降ってきましたけど」

 いま店内誰もいないっすよ。と続く声を聞いて、今日しばらく立ち尽くしていただけでなく、毎日のようにここで立ち止まる時間が筒抜けなことを知る。一瞬で頭の中が発火するみたいに熱くなった。すみ、ません大丈夫ですすみません、すみ、はは、あー。そんな言葉を口の中で何度も転がしながら、逃げるように帰った。ださい。狼狽えたって絶対思われた。

 逃げるように眠った体が起きたのは夕飯の時間で、階下から名前を呼ばれる声で起きた。下に降りると「ごはんどのくらい食べるの?」としゃもじを持った姉が作業のように声がけをする。普通。普通ってなに。少なめ。普通って言ったじゃん!

 食卓には寄せ鍋と常備菜の野菜のおかずが並んでいた。湯気があたたかい。席につき、茶碗を受け取って手をあわせる。

 明日。

 明日こそはコンビニに入る。

 ただ、こんなことを毎晩決意新たに考えている時点で、どうせ明日も叶わないのだと知っているのだ。

 コンビニには今日も行けなかった。コートのポケットにはフィナンシェがある。くれたのは小野さんじゃない。あのコンビニの、昨日と同じ店員。また店の前で立ち尽くしていた自分に気づいたのは声をかけられてからで、逃げ帰るはずが持たされてしまった。一六五円。発酵バター使用。まだ昨日のフィナンシェだってある。別に休日のコンビニなら入れる。なんてことはないフィナンシェだ。見たことはある。買ったことはないけど。でも休日なら自分で買うことだってできる。なのにこんなにコートの中があたたかかった。焼きたてでもなんでもないのにたしかに熱を持っていた。走るみたいに帰った。雪で滑って踏みとどまった。信号待ちの間にポケットから取り出して貪るように食べた。寒すぎて味なんてわからなかったけど、多分寒いせいじゃなかった。

 

         *

 

「蓮崎さん。ナパージュって塗れる?」

 はい、と頷くとボウルと刷毛が渡される。製菓室での作業は棒立ちだと足先から凍るように冷たくなるので、立ち止まっての作業は適宜その場で足踏みをするといい、と教えてくれた女性社員だった。パートの人たちはもう退勤間際で帰る準備に入っている。透明なゼリー状のコーティングを塗る自分の横を「ハルくん、精が出るねえ」と何人も何人も通り過ぎていく。ひとりひとりに一瞬顔を合わせて「おつかれさまです」と言うと、「はい、お先に失礼します」と頭を下げてみんな出ていった。パートの人たちが帰ると製菓室は一気にしずかになる。といっても作業中に私語が横行しているわけではないので、活気みたいなものがなくなるだけだ。

 いくつもいくつもあるカットケーキのフルーツにナパージュを塗りながら、どのペースで塗れば退勤までに清掃の時間を確保しつつ塗り終えられるか考える。頼まれた時点ですべて終わらせろという意味ではないのは分かっているが、できれば終わらせたい。たとえバイトでもサボれない。要領がよくないから。

 手許を必死に動かしているうちに、足が悴んでくる。そうすると指先の動きも鈍る。クリームにナパージュがはみ出す。まだ。まだもう少しは。

 寒いというのは偉大なことだ。寒ければ寒いほど、自他が区別できる。自分が誰なのかわかる。外気と体温の熱量の差だろうか。それとも吸い込む空気が凍っていることが自分を冷静にさせるのか。とにかく冬は寒くてまともな季節で、冬が際立つから雪深いこの街が好きだ。だからこのバイトも好きだった。

 息も止めるように塗っていたのか、塗り終わったあと息を吐くより先に吸い込んでいた。肺に冷たい空気が満ちる。バットを食洗機に出して、冷蔵庫の中も整理。算段を立てながらナパージュを塗り終えつややかなケーキを一段一段点検していると、「一八時で上がってねー」とチーフから声がかかる。冷たい。大きな冷蔵庫みたいな製菓室。返事をしつつ手を上げて返す。これが終わったら帰ろう。

 

         *

 

 体が冷え切る前に再び室内にいた。

 ガラス戸の先は外から見つめるのと変わらない。人はいなかった。店員も裏作業をしているのか、店内に姿がない。セルフレジもあるから困らない。目的は買い物ではないから、息をゆっくり吐いてから肺まで満ちるように吸い込んで、雑誌コーナーの方へ曲がる。右回りに一周しよう。適当なものを一個手に取って、セルフレジで会計すればいい。暖房の乾いた埃の匂いがする。飲み物の冷蔵庫が立ち並ぶ。大回りに回るのも不自然な気がしてお菓子売り場に入るように左に曲がる。

 あ。

 フィナンシェ。

「いらっしゃいませー」

 自ずと伸びていた手は驚いたせいでだらりと落ちて、万引きでも疑われたらと一瞬焦る。レジの内側にいるのはあの何度か顔を合わせた背の高い男の店員だった。目がしっかり合う。呼吸が浅い。息。空気があたたかい。あたたかいのはだめだ。わからなくなる。混ざる。自分と君が、お前が、あなたが、混ざってしまう。

 男はこちらの出方でも伺うみたいに黙って目も逸らさない。客は俺の他にいないから。でもこんなに凝視なんてするのか。わからない。居心地が悪い。目の前のフィナンシェを掴む。セルフレジに並ぼうとしたのに、「レジどうぞ」と言われると断ることすらできない。一六五円。スマホ。PayPay。スクラッチチャンス!黙ってくれ。黙れ。顔が熱い。部屋が暑いからか、焦っているからか、恥をかいているからか、自分には判断できない。シールが貼られたフィナンシェを引ったくるみたいに手にとる。大丈夫。もう帰ろう。もう大丈夫。

 これ、おいしかった?

「え」

 下がっていた頭が上がる。男の顔を明るい場所でしっかりと覗き込んだのははじめてのことだった。

 不思議と自分が落ち着いていくのを感じた。すっと胸がすくようにすずしい。あなたがあなたになる。自分とあなたのふたりになる。

 はい、と、薄く頷いた。俺も好き、それ、と男は返した。それ以上の会話はないまま別れて、もうコンビニは怖くないかもしれないと思った。

「名前教えてよ」

 と言われたのは、五回目の来店のときだった。

「……蓮崎」

 すんなりと答えるには躊躇いながらも、もう顔見知りになってしまったその人に苗字を教える。

「下は?」

「え」

「下の名前。俺、真波。真の波の方ね」

 聞いていないし、第一下の名前を教えられたらそちらでしか呼べなくなる。それとなく名札で苗字を確認しようとするが、男の胸に名札はついていない。最近はクレームを防ぐために名札をつけない接客業が多い、とふいに思い出した。

「ハルナ」

 かわいい名前だね、って。言われ慣れていたし、男も言いそうに思えたが、意外にも返ってきたのは「漢字は?」という質問だった。あの日以来バイト終わりにコンビニに来るのが当たり前になって、買うのは毎回フィナンシェだった。男の目に俺はどう映っているんだろう。「遙かな名前で、遙名」返す。「漢字めずらしいね」と男は言った。やけにゆっくりだったレジの動作も、いい加減レシートが出力されてしまう。

「おつかれさま」

 頭を下げた。コンビニを出る。

 男は会計のたびにこうして毎回雑談を振ってくる。嫌ではないけど、なんで、とは思う。でも蔑ろにするほど嫌ではないから、結局律儀に返していた。

 こちらに笑いかける顔は二、三個上程度に見えたし、真顔で棚出しをする横顔は十は上に見えた。年上であるということはわかっても、年齢の読めない人だった。男もよほどシフトを入れているようだからフリーターなのかもしれない。男から質問をされることはあっても、こちらから話しかけることはなかった。

 

 三月に入った。真冬よりはあたたかい日も増え、積もった雪も空もぐずついていた。バイト先ではホワイトデーに向けてチョコレートやチョコ菓子のラインがとめどなく動き、俺はといえば六個入りのボックスに正しい配置でチョコレートボンボンを入れては蓋をし、入れては蓋をし、それだけを日々続けていた。二月はミルクチョコレートやビターチョコレートが主だが三月はホワイトチョコがメインだ。それとは別にマカロンなんかもよく売れるらしく、小野さんはいつもより忙しそうだった。バレンタインやホワイトデーはケーキよりも菓子類が売れるので、焼き場は一番の繁忙期だという。

 ひたすらチョコを正しく詰め、個数を数えて出荷に出し、また詰め、そうすると六時間の勤務はあっという間に終わる。巻き戻すようにエアシャワーを浴び、手を洗って、更衣室で着替え、挨拶をして工場を出る。

 バイトの日はそのままコンビニに寄ってから帰るのがなんとなく通例になった。フィナンシェを買って、やけにゆっくりなレジの間喋ることまで、何度も繰り返した。

「ポケモン何世代?」

「若い子の間で今何流行ってんの」

「週末で積もったねー」

「そんなコートで寒くないの? ダウンがいいよ」

「今一番食べたいもの何? なんでも出てくるとしたら」

 男がレシートを渡しながら、「おつかれさま」と言うと会話は終わるのだった。「バイトおつかれさま」という意味で受け取っていたが、ここのところ「俺の相手おつかれさま」な気がしなくもない。

「たまにはフィナンシェ以外も買ってよ」と言った口で、「まあフィナンシェって、ちょうどいいんだよな、なんかこういうときちょうどいいよな」と自己解決する。そういう日もあった。話してみてわかったのは、こんなに同級生みたいに喋りかけてくる大人っているんだなということ。たとえひとつしか変わらなくても、年上は年上を崩さない喋り方をするものだ。自分だってそうだ。でもその男は違った。誰の同級生にもなりそうだった。倍以上年上の相手にだって。その証拠に、店長と思しき年配の男と喋っている最中だって、びっくりするくらいラフな友達だった。舐めているとか舐められているとかじゃなくて、何も守ってない。保身しないし相手のことも本気で腐してそれを高らかに笑い飛ばす。そうされるとなんだか全てを許してしまう気がした。居心地のいい人だった。

「ねえ」

 レシートが手渡される。

「ちょっと喋ろうよ」

「今?」

「俺、今から休憩―」

 バックヤードから出てきた髪をひとつにまとめた女性にちいさく手を振り、「ちょっとタバコ行ってきます」と男は告げた。フィナンシェを押し付けた手で、レジ横のホットドリンクコーナーからコーヒーを一本掴み、「佐々木さん、俺の会計で売っといてもらっていいすか」と笑顔を見せる。レジ操作の音を聞きながら、ふたりで外に出た。

 まだ降り出していないものの、今日降るとしたら雨になるだろう。暖化した街は雪を溶かし、そこかしこから雪が落ちる音が聞こえた。それでも息は十分白い。

「ブラック飲める?」

「え、俺?」

「あげる。それ飲んでる間だけでいいからさ、付き合ってよ」

 飲めずとも持って行けということなのか、返事を待たずにボトルが押し付けられた。

「あり、がとうございます」

 ペットボトルの蓋に切れこみが入る音が、予想より大きく波みたいに裾に広く広がるように、響いた。

 男はしばらくぼんやりと駐車場を見つめていて、話を振ることもタバコを取り出すこともしなかった。コートも着ていない。そう長く出ているつもりはないのだろう。休憩だってバックヤードでゆっくり取りたいはずだ。本当に彼が自分に声をかけた見当がつかなくて、黙って同じ方向を見つめながらコーヒーを飲む。息は白いが薄い。煙みたいな白さじゃなかった。

「そこのケーキ屋さ」

 頷く。言ったこともなかったけど、なんとなく自分が働いていることも伝わっている気がした。

「ケーキ、安いのだと三〇〇円台じゃん。なのにうまくて、けっこうえらいって思うよ」

 今物価高いからねー、コンビニのケーキの方が下手したら高い。声は続ける。

「なんのケーキが好き?」

「レアチーズ。……だけど、あそこは春に出る苺ロールもおいしい、と、思う」

 男の吐いた息が空間に溶けて霧散する。

「あ、フィナンシェもおいしい。いつも焼き立てを、くれる人がいて」

「え?」

 息を含ませるように笑った男の声は、すこしだけ吐く息の勢いを増した。それも程なく溶ける。

「何」

「いや、はじめて自分から話したなって」

 知ってたけどね、と男は背骨を伸ばし、その両腕を前に持ってきて肩も伸ばしてから解いた。

「いつも生クリームみたいな甘い匂いしてたよ。ケーキ屋の裏手の工場から出てくるとこも見るからさ。高校生でしょ? ケーキ作りって資格とかなくてできんだーって思ってた」

「補助みたいなことしかしてないけど、社員の人たちは製菓学校とか出てる人たちなんだと思う。たぶん」

「販売の方いくじゃん。普通だったら。接客の方が知識とか技術とかいらないしさ」

 接客にはそれはそれで素養や技術はや適性はある気がしたが、この男がそこで困ることはなさそうなのでわざわざ口を挟まなかった。すこし考えて、口を開く。

「高校を中退したんです。接客してたら知り合いに会っちゃうかもしれないし、なんか、そういう気まずさが必要以上に怖くて」

 そういえばタバコを吸わなくていいのかな。横を見ると、男はいつの間にかこちらを振り返っていて、目が合った。

 人の目は、こんなに映り込む自分がくっきりと見えるものだっただろうか。

「それさ。コンビニも嫌だよな。そういう、平日の昼どうだってできるとき。同世代は学校にいる時間だと、その時間に町にいる自分がどう見えるのかとかさ、考えちゃうの、懐いわ」

 一瞬でわかってしまったのは、この人も自分と似たような時期があったということだ。でもそこに容易に共感を許す感じもなくて、強くならざるを得ない、生きていくにはそうなるしかない遠さを感じた。

 誰にでも同級生みたいで、常にヘラヘラと、誰のことも守らず、自分自身にも他者にも軽々しく失礼で、なのに引き際は弁えていて、そういう人が。そんなあなたがこちらに踏み込みかけたのは何故だろう。救ってくれなんて頼んでない。俺のことは俺だけのことだ。似たような境遇を乗り越えて生きているからって俺が必ずそこに辿り着けるわけじゃない。そしてそんなことは誰よりもあなたが一番わかってる。なのになんで言ったんだろう。コートの中でぐるぐると熱が回る。あたたかいと感じるな。念じる。寒い。寒いままがいい。春にならないでほしい。春になったらこの街を出なければいけない、春になったらあの大きな冷蔵庫みたいな部屋から出ないといけない。

「ねえ」

 男の目がしん、とこちらを覗いている。目を合わせて他人と話すのはひどく久しぶりのことで、そして目を合わせられなくなる前は意識すらしていなかったから、人生ではじめてのように感じた。

「遙名くんにとって流れてるものって何」

「工場のレーン作業」突飛な質問はいつものことだったから、率直に頭に浮かび上がったものを言う。「人が多い時期、臨時でいっぱい雇って、それぞれが一個の作業を延々と繰り返してるとき。流れてるみたいな感じ、する」

「流れ作業的な?」

「それもあるけど、そういう感じじゃなくて。完成にむかってまっすぐ下に降りていく感じ。見えるんだ。自分の右隣には一個前の作業をしてる人がいて、左隣には一個後の作業をしている人がいる」

 すこし悩んでから、「真波さんは?」と聞いてみた。名前を呼んだのははじめてのことだった。

「うーん、まあ川? 海ってよりは川、だし。あと夕方の風に乗っていろんな家の夕飯の匂いがするのとか」

 席替え。往路と帰路。カラーサークル。流行。

 ふたりで出してもなかなか思い浮かばず、途中で真波さんは「音楽?」と言った。

「音楽は……流れてるっていうより、流してる? 音楽のままだったら流れてるって感じ、あんましないけど……」

 音楽が流れているところを想像する。見たことも聞いたこともないのにレコードが回っているイメージ。そうすると空間に音符が流れて、それが音楽として人間に聞こえるような、イメージ。

 音楽。身近な音楽。流れてるもの。

「あ、でも」自分が次に言うことをこの一瞬で忘れてしまわないか不安で、何度も何度も頭の中で反芻していた。「カラオケの履歴?」

「あー、カラオケの履歴」と真波さんは頷く。

「たしかに、そのイメージの方が流れてるわ。前の人のとか見れるし、あれって消えない感じが、流れてんのかも」

「消えない感じ?」

「消えたり、消せたりするものよりも」と真波さんは言って、「冷えたね」と笑った。体はいつの間にか冷え切っていた。

「おつかれさま」

 引っ越しの慌ただしさを引き継いだまま春は過ぎて、すぐに暑くなった。地元よりもうんと湿った暑さだ。気温は高いのにじめじめする。空気が重くまとわりつくような街だ。

 大学生活は概ね順調だった。友人は今まで通りにできた。学科の新歓に出たが、それ以降大人数の集まりには出ていない。友人三、四人で集まってたこ焼きはした。ほんまに家にたこ焼き器あんねや。口調を真似て言ってみたら「下手」「二度とやるな」と大バッシングを受けた。それに笑っているうちにたこ焼きはぐちゃぐちゃになって、二周目は慣れた友達がきれいな丸いたこ焼きを量産した。それにもなんか笑えた。なんでだろう。徹夜でレポートもした。徹夜しなくても終わる程度の内容だったけど、アニメ版のエヴァを垂れ流しにしながら、狭いテーブルでいくつもパソコンを突き合わせて、みんな黙ってたし黙ってなかった。終わりが見えてきたら手を止めて、食い入るようにエヴァを観て、眠くなってきたところでコンビニに走ってモンエナを買った。無意味に大学生ぶって朝まで起きて、楽しかったな。楽しかった。朝になったら近くのすき家に朝定食を食べに行った。本当にうれしかった。自分の中をいっとき流れていたあの無為な時間が洗い流されていくみたいな心地だった。

 自分は大丈夫かもしれないと騙すことができた。

 でも。

 川を見たとき。同じコンビニに入ったとき。街の風が焼き魚の匂いの日。陳列された棚にフィナンシェを見たとき。カラオケの履歴ボタンを間違えて押したとき。

 ふ、とその存在が立ち上る。真波さんが今何をしてどう生きているかは知らない。でもあのコンビニにはいないことは知っている。

 消えたのだ。コンビニから。

 そしてそれは俺の前から消えたのと同義だった。

 彼以外に店に顔見知りがいたわけではないから、辞めたのか、急に飛んだのか、やめる予定がもともとあってあの日が最後だったのか、何もわからない。当たり前だけどバイトがひとり消えたって店は正常に回るし、客に聞こえるように内部の話はされない。

 それでも俺は引っ越しまで毎日あのコンビニに通った。

 だから大丈夫な春だった。大丈夫でも思い出した。思い出すとしばらく考えた。

 思い出したり、思い出さなかったりしながら、次第に思い出さなきゃ思い出せない思い出になる。すべてのことはそうなる。そうやって生き残ってしまう。パソコンを登校のたびに持ってこなきゃいけないのは重くて疲れるな、とか、リュックでも買った方が楽だろうかとか。夜って感じしないけど消費期限だから夕飯に食パンをどうにかしなきゃとか。Netflixで途中まで見て止めていることがずっとタスクの映画、未読無視している俺以外で回る家族のLINEグループ、洗濯機の糸くずフィルター、残り一個のトイレットペーパー。

 生きていかなければいけない。

 階段はまだ先が長かった。大学の正門前には五〇段ほどの階段があって、運動不足は余儀なく解消される。上の方は逆光で暗く、影みたいな人がまばらに列を成して学校に吸い込まれていくのが見える。その中で手をおおきく振る人がいる。学科の友人だろうか。俺以外に振っているのかもしれない。


あとがき

波野ほなみ

漫画「まぎれていく」は、半分くらい実際にコンビニバイトで経験した出来事からできた漫画なので、こうして機会があって形にすることができてよかったです。

読んでくださったことに感謝いたします!ありがとうございました!

永春

ここまで読んでくださりありがとうございます!

傷ついていることを武器にしているうちは自分は苦しむ。気づいたらタフになったしたぶん非情にもなりました。そういう小説です。

生きます。生きていきましょう。

@mahorobacake
波野ほなみ(Honami Namino)と永春(Nagaharu)による漫画・イラストと小説・詩歌の合同サークル