わたしは平凡な人生でよかったのに。
いじめられることなく学校生活を過ごして、
都合のいい人扱いをうけることなく会社勤めして、
仲間はずれになれることなく会社勤めさえできていれば、
開業することも、
成り手が多すぎて需要と供給のバランスが崩壊している業界で仕事をしようとも、
せずにすんだのに。
わたしは簡単に幸せになれる。
空が美しかったら感動するし、
子どもの肌が滑らかなことに感動するし、
出会った本が面白かっただけで感動できる。
カレーの隠し味を変えて美味しかったら嬉しいし、
お気に入りのパンがパン屋さんで売っていたら嬉しいし、
無いと思っていた梅干しが冷蔵庫で見つかったときも嬉しい。
しょーもないことで幸せに生きられる人間だ。
その「しょーもないこと」じゃ、「ダメ」と思っていた。
「人と違っていて、いい」と知らなかったから。
いじめにあう、都合のいい扱いを受ける、仲間はずれにされる。
この事実から、「きっとわたしにダメな部分があるからだ」と過去のわたしは考えたのだ。
だから「ダメな部分は直さなければならない。だって誰かを不快な気持ちにさせているのだから。」と着地した。
当時のわたしも、周囲の人も、未熟だった。無知だった。
「人は自分と違う」「人は自分と違っていて、いい」
ということを知らなかったのだから。
「人は自分と違っていて、いい」という認識があれば、「個人的に受け入れられない人間は絶対に存在すること」を諦めることができたはずだ。仕方ないことだから。
で、「個人的に受け入れられない人間」と仲良くする必要はないから、仲間はずれ(=距離を置く)のは普通に選択肢としてありえるだけで、「ダメな部分を直す」必要はなくなる。
となると
・いじめられることなく学校生活を過ごして、
→「個人的に受け入れられない人間」へ「攻撃」していた
→「人は自分と違っていて、いい」をお互い知らなかっただけ。子どもだったしね。
・都合のいい人扱いをうけることなく会社勤めして、
→「人は自分と違っていて、いい」を過去のわたしが知らなかっただけ。
→知っていれば「嫌です」「ここまでしか無理です」と言えたかもしれない
・仲間はずれになれることなく会社勤めさえできていれば、
→「人は自分と違っていて、いい」を過去のわたしが知らなかっただけ。
→知っていれば「受け入れられない人間と距離をとりたくなるのは当然」と思えた。
→仲間はずれというか、「相手はわたしと適切な距離を取ろうとしただけ」。
「人は自分と違っていて、いい」を知った現在のわたしは・・・
やっぱり平凡に暮らしたい。
しょーもないことで幸せに生きられる人間であることを、これ以上「ダメだ」と否定したくない。自分がかわいそうだよ。
欲があるとすれば、ささやかな幸せを毎日感じられる環境を作っていきたいなということと、
「この幸せを否定しないでほしい」「邪魔しないでほしい」という、人間関係の「適度な距離感」を望みます。
まあ、否定してくる人がいても「あなたとわたしは違う人間だから、理解できないのは当然」と思えるけど、好みではないから。
他者からわたしの価値観や好きなことを否定されても「そうですか」だけど、他社の価値観や好きなことを否定するという「手段」を積極的に使う人と、わたしは仲良くなりたくありませんよ。はっきりいうと、嫌いです。
あなたもわたしのことを嫌ってもらって大丈夫です。近いと余計なエネルギーを使うのでお互いもったいないです。そのエネルギーは自分を幸せにするために使いましょうよ。
わたしは飽きっぽいからさ、飽きたらきっと「刺激(=予想外)」を求めると思う。
んで、すぐ疲れて、またこの平凡な暮らしに戻ってくる。
それでいいじゃん?
それでいいよ、自分。