今朝は、ちょっと涼しい。
ありがたいね。
あとでお散歩に行こうかな。
今日は朝から「これわたしと同じ歩みしてるじゃん!?」という漫画を見つけた。
読んでいて泣けた。
「泣けた」という事実から心が動いたことにホッとした。
この漫画を読んだことで、今、あらためて「わたしは本当は何がしたいんだろう?」について考えてみた。
漫画に出てきた言葉。
「明日事故に遭って、何もできない体になってしまうとしたら、本当は何をしたい?」
・体全体が心地よく感じることをして生きたい。
・子供達をもっと抱きしめたい、大好きと伝えたい
・美しい自然を見つめたい
・「面白そう!」があったら飛び込みたい
・電子書籍で絵日記をたくさんつくりたい
働きたいとか、お金の不安とか、そういうのはまったく出てこなかった。
「わたしが役にたっても立たなくても、みんな大丈夫」
「わたしが稼いでも稼がなくても、みんな大丈夫」
そんなふうに思えたからだと思う。
あと「人と関わりたい」という欲求も出てこなかった。そもそも弱いんだと思う。(人が怖いは、ほぼ乗り越えた上で。)
「面白そう!」を連れてきてくれるのは他者の場合が多いけど、必要条件じゃないんだよね。本やドラマでもできるから。
わたしは
今、この日記をかいているわたしがわたしの本体だと思っていた。
でも「まき子の意識」なだけで、ただの「まき子の一部」だった。
尿意も感情もコントロールできない。
足の裏のマメもコントロールできない。(早く治ってほしい)
今、これを書いているのは「まき子の意識」なだけで、
「まき子の全体」を「まき子の意識」だけではコントロールできない。
つまり、コントロールできないありとあらゆるものたちのおかげで、
「まき子の全体(=まき子という個体)」は生きていけている。
コントロールできないありとあらゆるものたちは「まき子という個体」を飛び出して、他者だったり、天気だったり、ご先祖様だったりする。
(9月に入ってからの体調不良の原因も、季節の変わり目による身体の反応なわけだし。)
つまり「まき子という個体」はコントロールできないありとあらゆるものたちとつながって生きている。生存している。
理解できないし、一つにもなれない。
でも「つながっている」「影響し合っている」。
わたしは
人付き合いがもっとうまくなれば、仕事ができるようになると思っていた。
そして、仕事をすることで「他者とのつながりを深く感じられる」と期待していた。望んでいた。
でも、そもそも今の人間関係に不満はまったくなかったし、その不満のない人間関係を構築できる人付き合いのスキルは持っていた。十分だった。
なのに「足りないから」「ダメだから」と、とにかくバツをつけて自分を走らせてた。目の前に「もっと他者とつながれるよ〜??」という人参をぶら下げて。
でも、もうすでに「まき子という個体」はコントロールできないありとあらゆるものたちとつながって生きている。生存している。
コントロールできないありとあらゆるものたちとは、根っこでは理解し合えないし、共感しあえないし、一つにもなれない。
でも「つながっている」「影響し合っている」。
だから寂しくない。
マイルドな寂しさはどうやっても消せないけど、それは「まき子の意識」と違う存在なのだから当然のこと。当たり前のこと。
だから「寂しさに固執しない」。「寂し過ぎない」。
「他者とのつながり」に固執しなくなったわたしは、何をしたい?
明日事故に遭って、何もできない体になってしまうとしたら、本当は何をしたい?
目の前に起きた出来事を淡々と受け入れ、こなしつつ、
・体全体が心地よく感じることをして生きたい。
(まずは運動習慣身につけたいな〜)
・子供達をもっと抱きしめたい、大好きと伝えたい
(ほっぺとお腹をたくさん触りたいな〜うふふ)
・美しい自然を見つめたい
(特に空だな。また虹が見れたらいいなあ)
・「面白そう!」があったら飛び込みたい
(その時がきたらでOK。待ちの姿勢でもOK。)
・電子書籍で絵日記をたくさんつくりたい
誰からも読まれなくても、
一円にならなくても。
「わたしが役にたっても立たなくても、みんな大丈夫」
「わたしが稼いでも稼がなくても、みんな大丈夫」
「直接誰かとつながらなくても、すでにつながってるから大丈夫」
だってほら、
今もこうやって日記を残している。
誰からも読まれなくても、
一円にならなくても、
わたしは残すことがやめられない。
日記を残したい。
電子書籍だと紙の本にもできて、自分が読みやすい。
ネットのブログはラクに残せるけど、読み返す時、目がしんどくなる。
日記を残したい。
未来の自分のために。
(と言いつつ、100名近い方が読んでくださっていて、本当に驚いております。いつもありがとうございます。うれしいです。ありがとう。)