最近は全体と分離がテーマのフェーズみたい。
下の子が汗をかいたので、上の子が持っていたタオルを「貸して」と言って、貸してもらった。
で、そのとき、わたしは上の子に「ありがとう」と言えなかった。
とっさに「しまった」と思ったけど、
次の瞬間、下の子が
「ありがとう」
と言葉を発した。
その瞬間、細胞が、魂が、喜びに震えた感覚になった。
「満たされた」と感じた。
たぶん、この感覚は、わたしだけじゃなく、上の子にも発生したと思う。
「ありがとう」という言葉を発したのは下の子一人だけ。
だけど、その場の二人が満たされた。
これが「全体の感覚」なんだなと確信した。
分離の世界だと、
Aさんが与えたものをBさんが受け取ったら、BさんはAさんに対して「ありがとう」と「言ったほうがいい」世界だ。取引だから。
でも全体の世界だと、
Aさんが与えたものをBさんが受け取っても、BさんはAさんに対して「ありがとう」と「言っても言わなくてもどちらでもいい」。
いつの間にか、結果的に、AさんもBさんも満たされる体験が生じる。
なぜならわたしたちはAさんでもあり、Bさんでもあり、みんなでひとつの大きな生命エネルギー体だから。
海に一雫落ちたら、その波紋は必ず海に伝わる。
(波紋の大きさでどこまで届くかは変わってくるけど。)
これと同じで、みんなでひとつの大きな生命エネルギー体のどこかで「ありがとう」が生じたら、大きな生命エネルギー体全体にも伝わるのだ。
ちょっと違うパターンの体験もあった。
朝起きたら、台所に保冷剤が放置されていた。
この保冷剤は、わたしの母が食べ物を分け与えてくれた際に入れてくれたもの。
わたしは母の「愛の結果」をないがしろにしている旦那に腹が立った。
でもふと、「旦那という存在を経由しただけ」という感覚になった。
つまり、母の愛は、旦那を経由して、わたしにしっかり届いた。
そう考えると、「わざわざ旦那が母に愛を返そうとしなくてもいいな」と思えたのだ。
わたしは、母の愛を感じられた。それでいいじゃないか。
そして、この愛は、栄養となり、わたしの家族の生命となる。わたしたちが元気に生きていられることこそが、母の喜びで、わたしたちからの「ありがとう」でもあるよな。と。
「細胞が震えた人が存在する」
その事実だけで、十分に周囲に影響を与えているのだ。
愛は、あったし、また、生まれた。
今、こうやってこの記事を書けているということは、わたしは生きているわけで。
生きているということは「生かさせてくれた」人々の行為の積み重ねなわけで。(生みの親、育ての親、その親を存在させた親たち・・・)
愛は、気づいていないだけで、そこかしこに存在していて、
さらに常に生まれ続けている。
だから枯渇することも、なくなることも決してない。