何かのせいにしていたい。

mam6
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公開:2024/9/23

日本語には様々な言い回しがある。ひとえに考えるという行為だけでみても、「想像する」だと現実的な響きがあり、「妄想する」だと突拍子もないような印象を与え、「夢みている」ともなれば、希望をもった輝かしさの半面、卑下するような含みさえもある。なんとも難解な言語だと、ふと面白さを覚えるとともに、伝達するという単純な行為をここまで複雑化する先人達に呆れる。

その点、英語はいたってシンプルなように感じる。実際に私の英語は決して褒められるような物ではないし、学業以外で修めようとした試しもないが、短い単語と身振り手振りで切り抜けた場面が思いつくだけでいくつかある。むしろ、そういった感情表現(コミュニケーション)で補い進めることを前提に英語はシンプルに作られているようにも感じる。

当たり前だが言語は相手に正確に伝えることが目的であり、相手が意図した事柄を汲み取れることが大前提である。にも関わらず、感情を表に出さぬように、態度や顔色を変えないように、いかに言葉の微妙な機微で胸中を投げ込み、それを受け取らせるかを突き詰めた日本語が異質なのだ。受け取れば最後、自分の世界を通す工程を挟むのが必須となり、自身に置き換える想像力が嫌でもこびり付く。その結果気を遣うという意識がうまれ、空気を読むという悪習が生まれ、異端を許さない美談が始まった。出る杭を打って平らにして、一律揃えてぴっちりと。本当に飽き飽きする。

だが、これを身体に馴染ませなければ、たちまちに集り心を食い千切られてしまう。感情や情景や風情など、所謂言葉遊びの範疇であれば美しい日本語と好感が持てるものの、上記のような押し付けがましい厄介事は、そんな緩和した心を地に落とすような疎ましさがある。それを「思いやり」や「道徳」として幼い頃からがんじがらめにして、大衆的をすばらしいと刷り込んでいく。平凡ということの、なんとつまらないことか。

しかし、一転して無難と表してみれば、手繰り寄せたくなる魅力を感じてしまう。苦労の少ない余生、みんなと同じで安心、仲間が沢山。否定し続けた事柄達からそう遠くをはないというのに、羨ましく見えてきてしまう。歳をとれば取るほど、寂しさというものがこみ上げるというが、それも原因の一端なのだろうか。どれだけ斜に構えていても、自分も平均化されていたかったのだろうか。仲間はずれにされたくなかっただけで、普通の人だったんじゃないのか。それを喜ばしく思うのか、そんな自分に落胆するか、どちらが自分らしさなのか。

薄っぺらい結論をこじつけてしまえば、何事も捉え方しだい、考え方でどうにでもなる、と希望的に締めくくることができてしまう。そうして、私のような弱い人間は、それすらも逃げ道としてしまえるのだ。この国で生きるために似つかわしくない感情を持つ自分が、どうにか許される道はないかと、常に目を光らせてしまうのだ。立ち向かい、克服することが良しではない、どんな貴方も認めよう、否定は悪だと、親の仇のように憎んだ美談が淘汰されはじめ、息のし易い道が作られ始めたことで、胸を張って当然のように堂々と逃げ道を歩いてしまうのだ。これが今考えられる最大の無難なのだと。普段は疑いもなく使っている言語を言い訳の一端にしてまで、自分は間違ってないと思いたいために、こんな駄文を書き連ねたのだ。社会不適合者と片付けて、便利な言葉を利用して、このままずっと、何かのせいにしていたい。