自分の命には予備があることを知っている、ということは、それ以上の既知はないことを知っている、ということだ。積み重なる日常の終わりに見つけ、見せびらかしもせずに、ただ静かに手にしたそれを、どのように振る舞うべきかをも知っているということだ。ただ、そう思いたいという重く濁ったこの情感を、包みこんで沈めてしまえればどれほど楽だろうか。この先は幾重にも道があって、描いたままに筆を進められると疑わなかった日々はとうに過ぎ、あるのはそんな絵空事を、さも現実かのように頭の片隅に漂わせながら生き萎える日々、日々。
二呼吸の後にも続いているとは言い切れないことが、さらに頭を重くする。いっそ結末がみえてしまいさえすれば、最も納得がいく捨て方もできるというのに。楽な方、苦しい方、何を選んでも行き着く先はたいして変わりはしないと、そう信じることだけが救いであると、欠片のような欲をかき集め続ける。この調子では進んでいけば、私に既知がなくなることも、そう遠くないのかもしれない。