計画的な殺人を一生隠す、あるいは姿を社会から完璧にくらませるための十分な時間を確保したいと思うのなら、あらかじめ死体を埋める穴を掘っておくのが良い。ある程度の大きさの穴を掘っておけば、いざ死体を埋めようとするとき少しくらいそれが寸足らずだとしても短時間で広げることができる。誰かに見られる可能性がある行為はなるべく短時間で済ませるべきだ。
そんなことが書かれている本を読んだとき、一虎は普段の生活に縁のない山奥に何度も通う方がリスクが高いのではないかと思った。そのことを思い出しながら、まあ恐らくコイツは事前に穴を掘るタイプだろう、とハンドルを握る千冬に視線を投げかける。
なんといっても松野千冬は彼にとって、たかが従業員、たかが同居人の誕生日のためにサプライズを用意するような男なのだ。綿密に計画を練られるタイプじゃないとできない芸当だろう。カップルしかいない公園の至る所に散りばめられたメモを探し回るはめになったことを思い出すと、一虎の口元に自然と笑みが浮かぶ。
しかし車体を擦る耳障りな音を聞いて、たちまちその笑みを消した。千冬が運転している小型の四輪駆動車は車体を大きく揺らしながら細い山道を走っている。フロントガラスに視線を向ければ、ライトに照らされた舗装されていない道と、その道を覆い隠してしまいそうなほど伸びた下草や低木の枝が見えた。この道がどこに続くのはわからないが、この車が山をのぼっていることは確かだった。
こんなに山奥に来たことなど一度もない。一虎は緊張しながら唐突に出現しては窓にぶつかっていく虫たちの跡を見ていた。
「この前に来たときより草が伸びてるな」
千冬がぼそりとつぶやくのを聞いて、一虎の心臓が跳ねた。やはり千冬は事前に穴を掘るタイプの人間らしい。夏だというのに指先が冷えていく。膝の上で拳を握って指先を手のひらであたためた。
恐らく俺はこの山で千冬に殺される。
一虎はそう確信を抱いた。なんだか最近の千冬はおかしいことばかりなのだ。思い詰めたようにこちらを見ていたり、そうかと思えば気まずそうに目をそらされたり。今思えばあれは胸の内にくすぶる怒りや憎悪を飲み下していたのかもしれない。
そんな風に思われていたと考えれば身を切るように痛い。一虎は小さく息を吐いて出所してから今までのことを振り返る。
どうやって知ったのか、出所の日に千冬は刑務所まで一虎を迎えに来た。そのときも殺されるのかもと内心思っていたのだが、あっという間に千冬の家に連れて帰られて、次の日には住民票や健康保険の手続きを手伝ってもらい、そのまた次の日には彼の経営しているペットショップのエプロンをつけていた。一虎は一気に住むところと働くところを手に入れた。
ペットショップの仕事も、成人としての社会での生活も、一虎には未知だった。慣れることに必死で、毎日はジェットコースターのように過ぎていく。そんな日々のなかで、一虎の胸には千冬への依存とも執着ともいえない感情が生まれた。いや、たぶん依存も執着も含まれている。だけどそれだけではない甘くてやさしい気持ちがあった。
二人で食べるごはんが美味しくて、一人だと味気ない。千冬の勤務時間に必ずやってきて、動物を見るわけでもなく雑談していく客が気に食わない。誕生日を祝ってもらったときは涙が出るほど嬉しくて、ようやく千冬へのこの気持ちが恋情なのだと気付いた。
しかしそんなこと口が裂けても本人に言えるわけがない。
自分は誰かに愛されるような存在ではないし、ましてや自分の犯してきた罪を考えれば、そんな相手に好意を向けられて、いい気分になるわけがない。千冬と一秒でも長く一緒にいるために、この気持ちは心の奥深くにある固い部分を穿つように掘った穴に埋めてしまおう。その上に尊敬や依存、友情というありふれた感情で蓋をしてしまえばなんとか隠せるはずだ。
そう決めた一虎はずっと千冬への想いを気付かれないように注意してきた。しかしソファで無防備に寝る姿や小さな動物を抱いて微笑んでいる表情を見ると、固く閉じ込めた気持ちにひびが入って漏れ出てしまいそうになった。
だからそうなる前に殺されるのは案外と悪いことではない。気持ちがバレずに済むのだから。
どうせなら首を絞めて欲しい。千冬の体温を感じたまま死ぬのがいい。
一虎はハンドルに置かれた千冬の手を盗み見る。細くて白いあの指が首にまとわりついたら、苦痛も喜びに変わるかもしれない。そんなことを考えた。
「あ! 一虎君見て!」
白い手が自分の首にかかることを夢想していた一虎は、千冬の呼びかけに驚いて顔をあげた。同時に急ブレーキがかかる。一虎の体が前に傾げるのを遮るように千冬が手を伸ばしてきた。まるで大事なものを守るみたいだった。
「うさぎいた! 野生の」
一虎の体の前にあった手がすっと動いて、フロントガラスの向こうを指差している。その方向に目線を移すと、茶色の体毛をしたうさぎが慌てて草むらのなかに入るところが見えた。顔は見えなかったが小さくて丸いしっぽが消えていく様子が可愛い。
「野生のうさぎ初めて見た」
「なんか店にいるのと違いますね。一瞬だけだから詳しくはわかんないけど」
灯りなんて前方を照らす車のライトしかないのに、千冬の瞳は太陽光を浴びているみたいにきらきらしている。野うさぎを見られたのがよほど嬉しかったのだろう。
この純粋に輝く瞳のままで殺してくれるだろうか。首を絞めながら、その強烈な輝かしさで射殺(いころ)して欲しい。胸の奥がざわめいて、熱が生まれる。
人間はいつか必ず死ぬ。そして自分は穏やかな死を迎えてはいけない存在だ。それなら愛する人に殺されたい。一虎のなかにあった死への恐怖はいつの間にかなくなり、諦念は願望にすり替わった。
うさぎを見送って走り出した車はさらにのぼっていく。五分ほど走って、唐突に開けた場所に出た。どうやら山頂らしいその場所は木が伐採されていて、芝生のような短い草が生えていた。頂上の手前で道が途切れ、その右側には車が数台停められる砂利敷きのスペースがあった。千冬はそこに駐車し、ライトを消してエンジンを切った。
「出よっか」
軽くて優しい声色だった。一虎は頷いてドアを開けた。
外に出て上を見れば、月がない真っ黒な空に宝石を撒き散らしたみたいに星が瞬いていた。一虎は思わず息を呑む。生まれてこの方、一度もこんな空を見たことがない。星座なんてひとつも知らないけど、ぎゅっと凝縮された星空は圧倒されるほど美しかった。
こんな星空のもとで千冬に殺されるなんて幸せすぎるのではないか。あまりに美しいシチュエーションの最期に、一虎は自分に見合っていないと考えた。
「てっぺんまで行きましょう」
千冬が手を伸ばしてきたから、素直に握った。千冬の手は泣きたいくらいあたたかくて、指先が少しかさついていて、それなのに手のひらはすべすべだった。
丸い親指の腹でのど仏を押してほしい。一虎は爪の先で千冬の親指を引っ掻いた。びくりと千冬の手が揺れる。
山の頂上へはすぐに着いた。遠くに夜景でも見えたりするのだろうかと思っていたのだが、四方をさらに高い山に囲まれているらしく一切の光も見えなかった。
「一虎君、上見て」
千冬の楽しげな声が間近で聞こえる。まだ手は繋いだままだった。
ゆっくりと空を見上げる。やはりそこには無数の星が輝いていて、気のせいかもしれないけど先ほどより天に近い気がした。耳を澄ませば星が煌めく音が聞こえそうなくらいだった。
「ここ、山に囲まれてるから光害が少なくて星がたくさん見えるんだよ」
「こんなに星が出てるの、初めて見た」
ぎゅっと強く手を握られて、一虎は千冬の方を向く。
「一虎君に見せたかった」
そう言ってにこりと笑った。星明かりに淡く照らされた千冬の笑顔はなんだかとても力強くて安心感がある。思えば、一虎は千冬の真っ直ぐでぶれない、安定している気質に惹かれたのだった。
「ありがと」
絞り出すように言った。もっとこの人の近くで過ごしたかった。笑ったり泣いたり怒ったり、健全にくるくると変わる表情を眺めていたかった。これでお別れだと思うと、胸が張り裂けそうになる。彼と離れることが死ぬことより辛い。
「一虎君」
千冬の手が離れていった。少し湿った一虎の手を風が冷やしていく。名残惜しいと思う間もなく、両肩を掴まれた。
真剣な顔をした千冬と目が合った。その瞳には強い意志が表れている。一虎は必死な思いで笑みを作る。ついにこのときがやってきたのだ。
「オレ、千冬にならいいよ」
そう言って目を閉じた。まぶたの奥が熱くなる。
あたたかな手で首と頬を包まれる。きっともうすぐその手が下りてきて、のど仏の下のあたりを力強く押すに違いない。心臓がうるさく騒ぎ出す。覚悟したはずなのに、みっともなく指が震えた。
しかし喉を狭める息苦しさは一向にやってこない。代わりに唇に柔らかなものが当たった。それは一瞬だけ一虎の下唇を食んで、離れていった。
「へ?」
まぶたを開けると焦点が合わないほど近くに千冬の顔があった。一虎は驚いて後ずさりする。
「え?」
千冬が驚いた顔でこちらを見る。
「千冬、今なにした?」
「キスだよ。一虎君がいいって言ったから」
「え?!」
キスしていいなんて言っていない。もちろんされたのが嫌なわけではない。しかし何かが決定的に噛み合っていないことはわかる。
「え?! ってなに? じゃ聞くけど、さっき一虎君が言った千冬にならいいよってなんのこと?」
「それは」
一虎は口ごもった。もしかして千冬は自分を殺そうと思ったわけではないのかもしれないという考えが頭をよぎったのだ。
「キスじゃなかったらなに? 教えて」
千冬が腕に絡みついて見上げてくる。薄暗いなかで見る千冬の目はいつもより瞳孔が大きくて、幼く見えた。それが可愛くてなんでも答えてあげたくなるが、さすがに殺されると思ったとは言えない。
「マジでなんのことだったの? ねえってば!」
しつこく騒ぐ様子はなんだかいつもの千冬と違う。違和感を持ちながら「なんでそんなしつけーんだよ」と言えば、千冬がごつんと額を肩にぶつけてきた。服の生地を通して、熱が伝わってくる。
「だって勘違いだったから、恥ずかしい。一虎君もオレのこと好きなんだと思ってたから。だからキスしたのに」
一虎の心臓が遅れて大きく動き出した。一虎君も、ということは千冬がオレのことを好きということだろうか? いや、そんなわけない。一虎の頭のなかで千冬の言葉がぐるぐると回る。
「なあ、なんとか言えって。なんで黙ってんの?」
ぐいぐいと腕を引っ張られて、一虎は正気に戻る。千冬が今にも泣きそうな顔でこちらを見上げていた。胃の辺りが甘く締め付けられるのを感じながら、一虎は千冬の頬に手を添える。二十代後半に差し掛かる男にしてはやわらかですべすべの頬に感動した。
「マジでさっきの千冬にならいいよって何のこと?」
しつこく追求してくる千冬をどうやって黙らせようか考える。どうせ本当のことを知りたいわけではなく、勘違いかもしれないという決まり悪さから同じ質問を繰り返しているのだ。
頬を触っていた手を、千冬のうなじに当てる。そのまま引き寄せて唇を重ねた。一虎は薄目を開けて千冬の顔を見る。
はじめはびっくりしたように目を見開いて、それから嬉しそうにまぶたを閉じた。何度か唇を啄んでも拒まれない。
ああ、そうか。千冬は本当にオレのことが好きなんだ。
唇に心地よい痺れを感じ、それは喉を通って心臓にとどまる。
尊敬だとか依存だとか友情なんて言葉が書かれた蓋をどこかに吹っ飛ばして、一虎は奥底に埋めていた気持ちを掘り当てる。
「千冬、好きだよ。好き」
息継ぎの合間に勝手に出てきた言葉はあまりにも幼稚で必死でかっこ悪い。だけど千冬が洟(はな)をすすって小さく笑って言った。
「知ってたよ、ばか。大好き」
厳重に隠していたつもりだったのに、なんの意味もなかった。情けなくて、恥ずかしくて、一虎は薄い体をぎゅうと抱き締めた。もう隠さなくていいんだ、そう思えば死ぬほど嬉しかった。