反グローバリズムについて思うことをつらつらと綴ってみたいと思う。
最初に私がこの言葉を知ったのは、小沢健二からだった。彼がアメリカへ行ってしまい、全曲インスト(歌なし)の『毎日の環境学』を最後に音楽活動も途絶え、レコード会社との契約があるのかどうか、それもよくわからないという状況だった頃。当時、漏れ伝わっていた情報によると、海外を放浪したその成果を『おばさんたちが案内する未来の世界』というドキュメンタリー映像にまとめ、小規模な上映会とセミナーをしている、ということらしかった。どうやら開催地近くの街頭に、ある日突然ポスターが貼られる以外に告知はされていなかったらしく、田舎に住んでいた私はそのイベントに行く術もわからず、そもそも開催情報もキャッチできず、ネットにいくつかあった参加者の感想を読むことでしか情報は得られなかった。ちなみにその映像はいまだに観たことがない。 1/4
ただそのイベント語られていたような内容は、その後に書かれた『企業的な社会、セラピー的な社会』という小冊子と、『うさぎ!』というシリーズを読んでいると、なんとなくどんなものだったかわかるようにはなっている。要するに、欧米を中心とする多国籍企業や軍産共同体などによる世界的な戦略によって進められたグローバル化によって、世界はどんどん画一的になり、人々の生活は大きなシステムのなかに取り込まれていく、という話だ。上映会をしていた当時、彼の評判はすこぶる悪く、ネットでは陰謀論にハマってしまっただの、妻に洗脳されただの、それはもうひどい言われようであった。
しかし、そんな前評判を聞いた上で初めてこの本を読んだ大学生の頃の私は大きな衝撃を受けた。そこに書かれていたのはネットで言われているような陰謀論ではなく、ただ事実を淡々と述べながら実証的に社会のシステム、からくりを説明し、何も持たない人々はなにを大切にして生きるべきか、それを押しつけではないかたちで書かれた文章だった。とはいえ、現在の社会の仕組み、在り方に疑問を投げかけているわけで、就職活動中の学生が一番読んではいけない本だったとは思う。この本に影響され、おかげで大人になってからずいぶんと生きづらい思いをしてきた。それでも思う。私は社会に出る前にこの本と出会えて本当に良かったと。 2/4
小沢健二が諸著を通じてこの時期に掲げていたのが、まさに「反グローバリズム」であった。欧米の巨大資本によって敷かれたレールからいかに逸脱して、人間らしい生き方、考え方を取り戻していくか。90年代の浮かれ切った日本でああいう売れ方をし、名家に出自のある彼があえてこういうスタンスをとったことに対して、私は彼の、ある種の覚悟のようなものを感じていた。
それから20年近い年月が経ち、彼を通じて知った「反グローバリズム」という言葉の意味が大きく変わってしまっていたことにある時気がついた。赤い帽子を被った大統領のスローガンが、まさにその「反グローバリズム」であったからだ。アメリカファースト。バーベキューとビールと自由。それのどこが反グローバリズムなのか? 「グローバル化」という言葉は、「世界がひとつになること」ではなく、「他国の文化や人々が自国に入り込むこと」、という意味に巧妙に読み替えられていた。 3/4
いま、日本で言われている「反グローバリズム」はもちろんMAGA以降のものだ。このやり口には既視感があった。すでにある言葉の意味を、逆転と呼べるほどに読み替えてスローガンに据えるのは、暗殺された日本の元総理大臣もよくやっていたからだ。なにかというと言葉の定義をこねくり回しては批判をかわし(実際はかわせていないのだが、そういう態度をとることで支持者たちにもそうするよう暗にサインを出し続けていた)、議論を延々と平行線に持ち込ませる話法が国会からSNSに蔓延していった。
そういった出来事の積み重ねの末にこの国の現状は成り立っている。反グローバリズムというのは本来、そういうものではない。ただそれだけが言いたかった。
いま巷で言われているのはただの排外主義であって、反グローバリズムなどでは決してない。 4/4